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探究学習はそんなに万能か?(「探究」する学びをつくる:社会とつながるプロジェクト型学習)

High Tech Highはそんなにすごいのか?

 High Tech Highの紹介本。読み終わった感想を一言でまとめるとこうだ。冒頭、ハイテックハイ自体が「公正性に向けてのプロジェクト」と定義された上で、社会の公正性を実現するために、1校がそのビジョンに向かって自ら新しい学びの形を作っている姿は、今の日本にはなかなか見られない景色で、素晴らしいものであろう。そういう意味では、是非一度見てみたいと感じた。

まずは『何を目指す学校か』の定義から

 他方、読んでいて強く感じたことは、学校は目指したい社会像があってこそ強く機能するということだ。前述の通り、ハイテックハイは公正な社会を目指すから、ある種擬似体験的な学びがプロジェクト学習として用意される。その中で、公正性を帯びたマインドセット(著者のいうメンタルモデル)や公正性を帯びた振る舞いも身につくと思う。日本ではどうか。学ぶ内容から学び方重視、資質能力重視に転換という新指導要領のウリはあるものの、それは「社会はどうなるか分からないから、対応できる力をつけよう」である。そこから目指したい社会像は見えてこない。

 そう考えると、国民性の違いに留意しながら、学ぶべき点を学ぶべきと思う。独立戦争以来、社会を作り上げる意味を知っているアメリカ人と、社会という概念自体明治以降に出会った日本人では、ビジョンを描き、向かう強さが異なると思うのだ(アメリカの公教育の苦戦は多方面で聞くところであり、その点でもハイテックハイ1校の話と制度的な話を混同しないように留意する必要がある)。

評価者のマインドセットは参考になる

 そのような留意点を踏まえても、特に評価の点は参考になる。成績=Gradeは「社会から求められるもの」。評価=Assessmentは教師が学びに合わせ設計するもの。総括的評価(プロジェクト等が完了した際の評価)も大切にするも、形成的評価(随時進行する営みの中での評価)で「取り組みにどんな意味があるか」「自分の意思決定はどうだったか」「今後の学びの方向性,評価軸はどうあるべきか」を考える取り組みは日本の学校教育がうまくできていない点であろう。評価が評定となり、大学入試に利用されてしまうのは日本の特徴なのか、アメリカも同様なのか。このあたりはより深めたいところだ。

探究学習で、何がどこまで良くなるか?

 本書のタイトルは「『探究」する学びを作る」だ。そして今は空前の探究ブームである。例えば5年後の2026年を迎えたタイミングでも、まだ探究探究言っているのだろうか。探究と言わなければ探究にならない学びは悲しい。先生たちが探究を当たり前にするのか、子どもたちが探究を当たり前にするのか。そして、このブームの先に、我々はどのような学びを見出すのだろうか。本書の最後にこうある。「2018年、日本の高校生のPISAスコアはトップレベルな一方で、日本財団の9カ国調査では『将来の夢を持っている』『自分で国や社会を変えられると思う』と答えた割合が最下位であった。また、TALIS2018で、日本の教員は『生徒に自信を持たせることができる』『生徒に学習の価値を見出すように手助けできる』と回答した割合が参加国平均に対して極端に低かった」。探究はあくまで手段であり、本来解決したい課題、目的はこっちのはずだ。これは社会変革の話も、国民の価値観転換の話も多分に含んでいると思う。それでも、教育関係者たちは全員でチャレンジすべきであろう。2050年の社会の中核を担うのは、今の高校生であるのだから。そしてボトムアップで変革を起こせる若者に直接関われるのは、教育関係者の特権なのだから。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。

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