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公教育は誰に何を担保すべきか?(日本の公教育 - 学力・コスト・民主主義 -)

 公教育は誰のためにあるのか。何を目的にあるのか。そんなことを問うてくる本書。1947年に教育基本法が制定されて以降、高校進学率の高まりが訪れ、次いで大学進学率の高まりが訪れ、そして昨今の少子化の訪れにより、社会における公教育に対する期待は変わってきた。進学率の高まりは受験競争加熱を生み、学校外の教育サービスへの期待も高まった。公教育と言っても、公立と私立で期待がまた違うだろう。さらには相対的貧困率の上昇をどう捉えるか。経済的に余裕のある家庭は選択の自由でより良い教育を求めるだろうし、他方で増加している余裕のない層は選択肢すら得られないだろう。筆者も記載しているように、実社会に勝者と敗者は存在するし、格差も存在する。そこに目を瞑っても意味はない。このような状況で、公教育は何に答えていくべきか、今一度思案したくなる。

 学校の起こりと今

 前提として、一斉授業の始まりは1800年台初頭のイギリスだそうだ。一斉授業の始まりの背景には、産業革命の進展から必要に迫られたスラム対応、インドとの混血児対応などがあったそうだ。すなわち、一斉授業は子供を1箇所にとりまとめ、効率的に教育する仕組みであることは念頭に置く必要がある。
 では経済は発展し、社会も成熟した今はどうか。画一的に提供される教育は選択の自由を阻害すると批判される。一方で選択肢を持てない層が増えているのは上述の通り。公教育は社会的不平等に向き合うのか、選択の自由に向き合うのか。踏まえて公教育に何をどこまで期待するのか

 割れる学校への期待

 学校はなぜ批判にさらされるのか。それは寄せられる3つの期待が、共存することができないからという。

学校に寄せられる期待
①民主的平等(公平に受けれる、社会からの期待)
②社会的効率性(食い扶持に繋がる、経済からの期待)
③社会移動(階層を上がれる、個人からの期待)

 ①に従って平等にしても、②が細分化されていくので平等には応えきれない。また③は個人の期待だが、①の社会的な平等と③の個人の選択の自由はぶつかりやすい。②が③を後押しする側面もあるようだ。併せて、社会に出たら何度も選抜はある。教育に徹底した平等を求めようと、どこまで可能なのか?この点も考えるべきと思う。とはいえ、1校1校で提供される教育の内容,質が異なろうと「みんなが通える学校」は、民主的平等の必須条件の1つと言えるのではないだろうか。

良い教育はなぜ証明できないか

 これからの公教育を見据える上で、良い教育を定量的に捉えていくことは重要だろう。しかし、筆者は「教育調査の難しさ」にも触れる。主な理由は下記3つ。

①教育成果が、学校だけによるものと言い切れない
②正(負)の測定結果が、学校と他因子で相殺しあってる可能性がある
③1度の横断的調査だけでよいのか

 すなわち「 もし学校がなかったらどうなっていたか」が検証できない。カテゴリーに分けて調査しようにも「教育を受けた組」「そうでない組」に分けて調査することも現実的でないだろう。もし万が一分けられたとしても、他の因子の影響を受けるため、特定の教育成果だけと決められない。いつの教育成果を狙っているものなのか、それがもし長期的なものであれば、これも調査の難しさに直結するだろう。

学校、企業、家庭の一体的な変化は可能か?

 ここまで記載したように、学校には相反する期待が寄せられる。社会全体でもそうだし、一つの教室でもそうだろう。多様な児童生徒がいるため、各家庭が学校に抱く期待は異なるだろう。しかも、どのような教育が良い教育か、定量的に示して議論することが難しい。肯定されることもあるだろうが、建設的な反論がしようのない議論も多いのではないか。筆者はここに対して、学校・企業・家庭の一体的な変化の必要性を解く。すなわち、経済界からの一方的な期待や、各家庭の個別の要求を元に議論するのではなく、それぞれが変化することを求めていた。
 筆者は例として、問題の一つとして日本型雇用=職務としての採用ではなく所属として採用することの弊害を説く。つまり、経済界の求めに応じて公教育の内容を変えたところで、その教育成果による採用がされるような雇用になっていないと指摘する。

日本型雇用の例
・職務ではなくメンバーとしての採用
・集団としての目標達成の重視
・分業の未発達
・分業化されていないので組織内で優秀な人に知見が俗人化
・社内の多様なポジションを経験した人がリーダーに
・無意味な会議
・些細なミスも許容しない(非常事態に脆い)
・大学は専門入学⇄企業はメンバーシップ採用(専門性が評価できない)
・情緒的結合が強い(熱心でないとダメ、など)

1つで良いから、新たな公教育像を示すモデルを

 全体を通じて、読めば読むほど「公教育をより良くする」ことの難しさを痛感する。教育制度内・学校内の改革だけでなく、学校と企業の接続や、学校に通う児童生徒の保護者の認識にも変化が求められるからだ。一方で、授業に加えて進路指導、生徒指導、特別活動、部活動の全てを抱える日本の学校システムが限界に近づき、仕組みとしての持続性もなくなりつつある。無理に続けても、形だけの継続にしかならない。だからこそ、社会全体の合意はできなくても、1校単位であれば、学校と学校を取り囲む地域・企業・家庭とで新しい公教育像は作れるのではないか。
 格差や地域差が大きくなり、多様性も叫ばれる昨今。各学校が自律して新しい学校像を描く。そんな時代を牽引するモデル校の誕生に期待し、応援したいものである。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。

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