西村熊吉「洋画の印刷」を読む③
これまで2回にわたって、木版画の摺師西村熊吉の談話記事「洋画の印刷」(『趣味』第3巻第2号、明治41年2月1日、易風社)を読んできた。
今回は最終回で、洋画、特に水彩画の木版化における技術的なむずかしさやオリジナルの洋画を木版で複製することの意義について考えてみたい。
黒田清輝《銚子の写生の内》
西村は黒田清輝の水彩画を木版にした経験を次のように語っている。
伊上凡骨とコンビを組んで、西村は『明星』や白馬会の機関誌『光風』で活躍することになる。
「黒田先生」はもちろん、白馬会の創立者、黒田清輝である。
『光風』は白馬会の機関誌であるから、カラー図版を入れたい。しかし、木版では「禄なものは出来ない」と黒田清輝は考えていて、版下となる絵を描こうとはしなかった。
「銚子の漁船」とは、『光風』創刊号(明治38年5月3日、光風発行所)に掲載された木版画で目次では題名は《銚子写生の内(水彩画木版) 黒田清輝》となっている。黒田清輝の原画の水彩画を木版にしたことがわかる。目次の末尾には、「木版彫刻 伊上凡骨」とあり摺師の西村の名は出ていない。
厚手の台紙に木版が貼付されている。
水面の色合いの変化など、とても木版画とは思えない繊細さで表現されている。
鉛筆でスケッチして、水彩絵具で彩色したと思われるが、鉛筆の線の表現もみごとである。拡大画像を示しておこう。
鉛筆の線の表現を確認するためにさらに拡大してみよう。
ここまで拡大すると鉛筆の線がいちばん上にあるのではなく、その上に色の面が摺られていることがわかる。
実際の水彩画でも、鉛筆で軽くデッサンして、その上に水彩絵具をのせると、鉛筆の描線の上に色の筆が走ることになり、木版ではそれを忠実に復元しているのである。
波のきらめきも、何層も色を重ねて表現されていることがわかる。
こうして拡大してみると、層の重なりがよくわかり、離れて見たときに、それが海面のきらめきを表現していることがよくわかる。
仕上がりを見て、木版では限界があると考えていた黒田は「木板でもかう云ふ風にも行くものか」という驚きを隠せなかったのである。
言うまでもないことだが、黒田が目にしたものは、今ここに画像として掲げているものと同じである。木版は複製手段であり、おそらく最低1000部は印刷されたであろう。
雑誌『光風』は、現在、国立国会図書館デジタルライブラリーの個人送信資料として見ることができる。もちろん、カラー画像である。
ご覧になれば木版の多様な感触と、他の印刷との差異を実感できるだろう。
『三宅画譜』、『富士十二景』など
さて、西村はその後手がけた仕事として、三宅克己の『三宅画譜』、中沢弘光の『富士十二景』などの名をあげている。
どんな本かを調べるが、なかなかわからない。
本を探すとき次世代デジタルライブラリーで検索すると、書物の巻末に付いている出版広告が出てくることがある。出版広告から本の身元がわかることがあるのだ。
今回は、検索すると、瀧精一著『芸術雑話』(明治40年7月、金尾文淵堂)という本の巻末に、金尾文淵堂の「蔵版図書一覧」が付いていて、その中に『三宅画譜』と『富士十二景』の両方の広告が掲載されていることがわかった。
雑誌や書物に掲載された中沢の絵画の事例を集成した『中澤弘光研究』(責任編集、発行、三井光溪、平成18年9月1日)には、金尾文淵堂の明治40年刊、『富士十二景』の表紙、図版が提示されている。残念ながら奥付の図版はないが、水彩画を木版にした画集で、表紙に「伊上凡骨彫/西村熊吉摺」の文字が印刷されている。
広告を当たっていくと、梁江堂刊の尾崎紅葉著『恋の山賤』(明治41年10月10日、梁江堂)の巻末出版広告に、「梁江堂発兌」として『水彩富士十二景』があがっていることもわかった。
これは、明治40年に望月信亨編『仏教大辞典』刊行の費用がかさんで金尾文淵堂の経営が傾いたことと関連するのかもしれない。明治41年に経営が破綻するので、版元が移行した可能性があるだろう。
『東海道五十三次』という書名の本はないようだ。
ただ、先に触れた『中澤弘光研究』(責任編集・発行、三井光溪、平成18年9月1日)には、『五十三次スケッチ水彩初集』(大野書店、明治38年6月5日)という本の5枚の木版画が図版で紹介されており、この本の可能性が高いだろう。
広告の中央左寄りに「明治四十年東京勧業博覧会美術館出品絵画」という柱があるが、これは『三宅画譜』収録の絵画について言っているのか、『水彩富士十二景』も含むのか、わからない。
日露戦役のために実施が遅れた東京勧業博覧会は、1907年の3月から7月まで上野公園とその周辺で開催された。
この時、三宅克己は《雲》という絵画を出品している。これが、『三宅画譜』に木版化されて収録されているということなのだろうか。
『三宅画譜』は稀覯本なので、《雲》の木版が収められているかどうか今のところ確認はできない。
このように調べると、分かることもあるが、分からないことも増えてくるのである。
変化する木版印刷
次は洋画の木版化の作業についてやや具体的に語っている部分である。洋画に取り組んだことで、いろんな変化が起きたことについて、西村は語っている。
画家たちが「上品」で来るとはどういうことだろう。
おそらく「上品」で来るとは、画家たちが最高の出来の原画を提示してくるということで、その原画を木版画で複製するのにたいへん骨が折れたと西村は語っているのであろう。
「今迄」、すなわちこれまでの錦絵なら、版下絵に輪郭線があり、各部の色が指定されてくるので、それぞれの部分を「一色」で摺りあげるとよかった。
しかし、「形のない」、すなわち輪郭線がなく、色の陰影が複雑な洋画では、色をさまざまに「かけ合せ」て印刷しなくてはならなかったのである。
「かけ合せ」とは、技法としては色を重ねて摺るということを示している。
日本画では輪郭線のなかにぴったり色が収まっていればよかったが、洋画では、少し離れて見て視覚的効果があがっているほうが好ましかったのである。
挿絵・口絵と洋画の木版化のちがい
西村の談話記事で、わたしが最も気になったのは、画家が「上品」を提示してくるということである。おそらく、洋画の木版化に於いて、画家が彫師や摺師に示す版下絵は、原画そのものだということを「上品」という言葉は示しているのである。
従来の口絵や挿絵では、版下絵から、輪郭線のみの主版が彫られ、輪郭線のみの校合摺ができる。
20枚ほど摺られた校合摺に、絵師・画家が「色ざし」といって色の指定を朱で書き入れていく。近代の口絵では、「さしあげ」といって完成品に近い色見本が作成され、それらをもとに彫版、摺刷がおこなわれ、木版画が完成する。
その過程について、常木佳奈氏の「近代木版口絵と春陽堂【4】近代木版口絵の制作(1)」、「近代木版口絵と春陽堂【5】近代木版口絵の制作(2)」が詳しく記述している。
また、日本近代文学館・編、出口智之・責任編集『明治文学の彩り 口絵・挿絵の世界』(2022年8月10日、春陽堂書店)では、作者が挿絵の下絵を示す近世からの伝統が近代でも生きていたことや、さしあげと完成画が若干異なっている場合があることなどが、豊富な図版によって紹介されている。
こうした口絵・挿絵と、西村が手がけた洋画の木版化はどこがちがうのだろうか。
口絵や挿絵では、下絵やさしあげは制作の過程では意味があるが、廃棄されるものであり、重要なのは摺りあげられた完成品である。
しかし、洋画の木版化において重要なのは、提示される原画そのものであり、原画と同じ趣のものを複製することが大切なのである。完成した木版画は、原画をどこまで複製し得たかが重要なのである。
わたしが談話の聞き手であったなら、原画から版下絵をどのように作るのか、校合摺りの段階はあるのか、原画は傷めることなく画家に返すのか、などについて西村に質問しただろう。
残念ながら、それらの細かい点についてはわからない。
思えば、原画の忠実な複製のために、木版画の彫りや摺りの技法の革新が積み重ねられていくのは、少し矛盾を含んだ歩みのように思われる。なぜなら、一般的に忠実な複製というものは、主観的な工夫を付け加えないことを前提としているからである。
水彩画はむずかしい
西村は水彩画が特にむずかしいと語っている。
「物をぴたりと奇麗に刷つていけない」とは、どういうことか。まず「物をぴたりと奇麗に」摺るのは、伝統的な木版画の行き方である。それは確立した様式であり、約束事の上に成り立つことである。
しかし、水彩画では同じ色面でも濃淡が生じ、色を重ねると線で区切れない連続的な変化がおこるので、それを木版で再現することがむずかしいのである。
それを表現するためには「十度も二十度もかけ合せ」る、すなわちそれだけ版を重ねて、やっと微妙な感触が表現できるのである。
色彩が明確に区分されている「日本画」ではそうした版の重ね方は必要がないのである。
気持ちをこめて
西村は摺師の心がまえについて次のように語っている。
簡単に言えば気持ちをこめて制作に当たることが大切だと西村は語っている。芸道やスポーツでも同じ事が強調されることは多い。
しかし、気持ちをこめさえすれば、うまくいくということではない。気持ちをこめて、かつ、技術を実際に工夫しつつ向上させないと、質の高い表現はできないのである。
西村が自分の着ている絣の袷の着物を例にして、藍を薄くすれば単衣に見えるし、濃くすれば袷に見えるという技術的なこつを示しているのは、気持ちをこめることは大事だが、気持ちだけではよい表現ができないことの例証になっている。
役者と同じ
やり方が決まっていた錦絵の摺りでは、ただこすりさえすればよいという伝習でやっていけたが、今は洋画のような複雑な色彩のものを、オリジナルと同じように仕上げなくてはならない。
画家が原画という脚本を示すのなら、摺師は「役者」としてそれを演じるとい「気組」がなくてはよい作品が作れないと、西村は語っている。
原画という脚本を深く理解し、追体験しないと、原画と同じ質のものを再現することはできないということを「役者」という喩えは語っているのである。
彫りも大事
「彫刻」すなわち彫りがきちんとしていないと、よいものができない。摺師がいくらがんばっても、土台となる彫りがいいかげんであればよいものはできない、と西村は語る。
指導者となる彫師が親方として工房を構えていて、職工がそこで働いている。彫師の中には、自分の名前で仕事を受けても、職工に任せきりの者もいてそれは困るというのである。
こうした彫師の対極にるのが、西村と組んで数多くの木版画を残した伊上凡骨である。
明治中後期の雑誌や書物に掲載された木版画で、すぐれたものは、伊上凡骨の彫り、西村熊吉の摺りであることが多い。
それは、伊上、西村のコンビの活躍を示すものだが、同時に洋画を深く理解してそれを木版で複製できる技倆がある者が、ふたりの他にあまりいなかったことをも示している。
ふたりのコンビの作品で、彫りの工夫が版面からうかがえるものを紹介しておこう。
『明星』午歳第11号(明治39年11月1日)掲載の《冬の月》である。
目次では、「(絵画)三宅克己/(彫刻)伊上凡骨/(印刷)西村熊吉」となっている。
題は《冬の月》であるが、月そのものは描かず、月明かりに照らされた冬の夜の田園の光景が描かれている。
左の樹木の部分を拡大して、彫りと摺りの様子を観察してみよう。
樹木を表現するのに緑系の色が重ねられている。それだけではなく、白抜きの木の間の周辺を見ると縦や横の線が確認され、離れて見ると、樹木の葉の微妙な陰影が表現されていることが分かる。
カメラを変えて、もう少し拡大してみよう。白抜きの木の間の周辺部分である。
どのような道具を使用するのかはわからないが、版木に小さな凹凸が作られ、それが版面に摺られているように思われる。
普通の視覚的距離をとって見ると、この凹凸は視認できないが、単なる平面ではないという触感は視覚に伝わるのではないだろうか。
わたしは、錦絵や浮世絵の技法を十分熟知しているわけではないので、こうした彫りが伝統技法にもあったのかどうか判定することができない。
ただ、原画の水彩画にある微妙な色の重なりを復元するために、こうした彫りが選択され、摺師もその工夫の理由をよく知りつつ印刷したのである。
拡大図を見ていると、版画の表現のおもしろさそのものがあらわになってきている、という感じさえ受けとれるのである。
職工の技術向上も大事
当時の木版の摺りも彫りも、親方が工房をかまえ、そこで職人たちが作業するという形がとられていた。
西村は、職工たちの技術向上も重要だと語っている。
洋画の印刷にあたって、親方が新技法を開発しても、職工にそれが共有されないと意味がないのである。
職工が新技法に積極的になれないのには、当時の労働のあり方もかかわっているかもしれない。日銭さえ稼げればそれで十分という職工も多かったのだろう。また、独立についての年限や技術の水準がルール化されていれば、職工に向上心が生まれやすくなったかもしれない。
西村は、画家の制作過程をそばで見て追体験したいが、今はその余裕がないと語っている。
ここで談話記事は終わるが、「今度の大博覧会」が何を指すのかが分からない。
明治40年3月から開催された東京勧業博覧会は、すでに終わっている。次の大正博覧会はずっと先のことである。
談話記事「洋画の印刷」の後の時期になるが、明治44年9月に『精巧木版水彩画譜』(日本葉書会発行・博文館発売)という本が出ている。
国立国会図書館デジタルライブラリーにあがっているが、モノクロ画像のため印刷の美しさを確認することができないのは残念である。
ただ、後記が付いていて、次のような一節がある。
「昨年の東京勧業博覧会美術館に於て審査の結果名誉ある二等賞牌を受領したる事実」とあるが、この展覧会が何を指しているのかが分からない。文脈からは、原画ではなく、木版画が受賞したととれる。木版画が受賞する展覧会があったかどうか分からないので、以後、継続して調査することとしたい。
ちなみに、「東京勧業博覧会美術館」では文部省美術展覧会(文展)が開催され、名称は「竹之台陳列館」に変わる。
三宅克己は、第1回展から入選を重ね、第3回展(1909年)では、《湯ヶ島》で三等賞を得ている。
複製と創造
さて、『精巧木版水彩画譜』(日本葉書会発行・博文館発売)の後記では、原画作者と、彫刻師、摺師を対等にあつかっており、「製版印刷」に重点を置いている。
その理由は明らかで、原画のよさを印刷で多くの人々に伝えることが重視されているからである。木版という印刷手法によって原画を複製することが目的だったのである。
しかし、見てきたように、原画の忠実な複製は、木版画の技法を革新する可能性を掘り起こすことでもあった。
西村は洋画の木版化をすすめていくにあたって職人としての工夫を重ねていくが、その過程で創作的喜びに近いものを感じているのではないかと推測される。
調べが不十分な点も多々あるが、西村熊吉の談話記事「洋画の印刷」が内包しているさまざまな問題を、とりあえずは明るみに出すことができたのではないだろうか。
調べを続けて、分かったことは追記していきたいと思う。(終わり)
【付記】談話記事「洋画の印刷」は総ルビであるが、本稿①②③とも、ルビは取捨選択した。
*ご一読くださりありがとうございました。
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