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人生の虚しさを乗り越える勇気

人は生まれてくると、必ず死を迎えるということ。死する運命にある(Mortality)のは人だけではないのだが、人は全ての生物の中でとりわけ劇的に、自分の死を意識せずにはいられないものだと思う。

ココという名のメスのゴリラがかつていて、彼女は死の概念をかなりの程度理解していたのではないかと考えられているそうだ。

彼女は「死」の概念も理解しており、手話で「ゴリラはいつ死ぬのか?」と問われると「年をとり 病気で」と回答し、「その時何を感じるのか?」という質問には「眠る」とだけ答えた。 そして、「死んだゴリラはどこへ行くのか」と聞くと、「苦痛のない 穴に さようなら」と答えた。

Wikipedia「ココ(ゴリラ)」より引用。

手話で人間と意思を疎通したというこのココというゴリラが特殊であった可能性はあるが、少なくとも、ゴリラの中に死の概念を理解した可能性がある個体はいたことになる。

このような例外はあるにせよ、それでも私は、人間にとって「必ず死すべき運命にあること」とは、他の全ての生物に比べてもなお激しく心を揺さぶる意味を持っていると思う。
それは、意味内容理解の深さや、感情の解像度において他の生物は多分、人間には及ばないからである。
私たちは何かのぼんやりとした不安に襲われたとき、その感情を来した原因がどこにあるのか探ろうとする。「あああの時の同僚の態度にモヤモヤしているのだ」とか、「もうすぐある苦手科目の試験が不安で」とか、理由がわかるならよい。しかし、厄介なのは理由のわからない不安である。
芥川の遺書にあったという文言「なにかぼんやりとした不安」とは、存在そのものに根付く実存の不安というべきもので、人間が逃れられない死をどこか未来に控えつつ、明日をもしれぬ生を生きてゆかねばならないこと自体への不安である。これはもう、人間の宿痾であり、死ぬ瞬間にしか拭い去ることのできない不安。
幼児の頃にこいつの存在に気づき、死を迎えるまでの間の何十年かの間、引きずってゆくしかないものだと思う。芥川は特に敏感だったというわけだ。河合隼雄もこの類と思われる。死という概念を知った幼い頃、それを過度に恐れてひどく泣き、「泣き虫ハァちゃん」と呼ばれていた。だが彼は、芥川のように命を途絶させることはなく、最後まで生き抜いた。

私は、芥川とか河合隼雄のタイプだ。実存の不安に苛まれ、いずれ来る死を過度に恐れる。

人生は虚しい。そう思った時、私たちは人生を無駄にするような自暴自棄に走る。短絡的な深酒だったり、無理な夜更かしだったり、薬を飲みすぎたり、家族を大切にすることをやめたり。さまざまな形態がある。
私は、「何もできない私、能力の低い私」というレッテルを自らに貼り、隅っこで弱者の如く震えて、挑戦をしないという方法で、人生を無駄にしてきた。
人間は、幼い頃は何もできなくて当たり前だが、一定の年齢に達したときに「何もできない私」ということに気がつくと、多分ほぼ必定で抑うつ状態に陥る。人間が、誰かの役に立ちたい、社会の役に立ちたい、必要とされたいと思うことは、おそらく本能的なものなのではないかと思う。少なくとも、人間が集団で生活する生物として進化した結果、引っ付いてきた傾向であろうと思う。
私は進化心理学や進化生物学の専門ではないので、全て直観でこのように考えているので、あらかじめことわりをいれておく。全て、戯言だ。

私の人生は虚しい。いつ終わるかわからないし、多分こんな生活をしていて、こんなクヨクヨする性格だから、多分早死の方だろう。
頑張るだけの力もない。ならば震えていよう。これによって、ますます自己肯定感が下がるという悪循環に陥っている。
私という人間に取り憑いたこの魔物は、取り払わねばならない。人生は虚しいので、いつか終わるから、頑張っても無駄だという意識のことだ。こいつは生まれたときからテラトマ体のように私と共にいて、引き剥がすことができない。
彼が生み出したこの悪循環を逆回ししたいと思う。
人生は虚しいかもしれない。だから、与えられている時間の間、必死に走る勇気を持ちたいと思う。
インプットしたいろんな知識や、自分の中で考えていることを、こうして文章に書いて人に公開しよう。この試みもその一つである。
多分私の言っている勇気とは、アドラーのいう「勇気」という概念と同じものだろう。だがアドラーの借り物だと思うと、私は全力で勇気を出すのが難しいと思うので、あくまで私の「勇気」に限り、私のみが発明した、私にしか適合しない勇気の持ち方だと思ってこれからの人生を走っていきたいと思う。

この記事は、未来の私への忘備録。ならびに、私と似たところのある人が「勇気」をもつヒントになるかもしれない可能性を開くものとしてここに残しておく。

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