長月燁(Akira Nagatsuki)

素人の物書き。コソコソと小説を書いている。継続してウェブ公開している作品もなく、新人賞…

長月燁(Akira Nagatsuki)

素人の物書き。コソコソと小説を書いている。継続してウェブ公開している作品もなく、新人賞応募もしてないへっぽこ。 ものを書いていて日々思うこととか、創作にかける思いなどを綴る予定。 現在のヘッダー画像は神武天皇像@豊橋 アイコンはとある着せ替えゲーム。

最近の記事

児童文学をいまさら読む。

他の人が書いた小説を読むのに、あまり気が進まない。そういう精神状態になっているのは物書きの端くれとして引き出しが狭くなるのでよくないと、かねがね焦燥感に駆られてきた。 本屋の文庫コーナーをうろうろ、うろうろと1時間ほど巡ってみたが、「よしこれを読んでみよう」と思う現代小説がなかなか見当たらない。結局新書か、戦前か戦後まもない頃の「古典」を手に取ってしまう。違うんだ、もっと最近の、少なくとも平成になってから書かれたものを読まなければ私の小宇宙は広がらない。 そんな日々がしばらく

    • 現実がクソすぎて小説がスランプ

      フィクションにもリアリティがないといけないというこだわりのため、執筆がスランプに陥っている。完全に異世界を描くならそれでもいいのかもしれない。中高生のころは、少なくとも現実世界ではない場所を舞台とした物語を書いていた。異世界ものではなく、最初から異世界にいる人たちが繰り広げる物語である。あの頃に書いていたものたちをあえて分類するならハイファンタジーだと思われる。 ここまでは下書きに保存していた。 三日ほど経ってから以下に続きを書く。 大人になって、現実がクソだということに

      • 落ち込んだら何か書いてみる試み。

        私はよく落ち込む。 そしてそれを愚痴る相手もそんなにいない。蛆虫みたいなやつなので、ウジウジしているからこんな内容聞かせたら相手が可哀想だよなと思ってしまい……結局家族なんかを犠牲にする。 こういう意味で私という人間はかなりの内弁慶になっている。 今日はその落ち込みを不特定多数の人に見られてもいい範囲で文章にしてみることにした。 神経が異常に繊細なため、できないことが多い。 すぐにストレスにやられて体調を崩す。神経はそう太くなることはない、これは生まれつき決まっているか、も

        • 安寧の地はどこにもないと思えば

          「ピュアニスタ」というアプリゲームの話をする。私はこのゲームをプレイしている。 私のアイコンは「ピュアニスタ」という着せ替えゲームのスクリーンショットから作られている。 このゲームは一応「四歳から遊べて、大人も楽しめる着せ替えゲーム」を標榜しており、主なターゲットは女性。男性もわずかにいるように思うが、ほとんどのユーザーは女性で占められている。 特定のユーザーについて言及するつもりは全くないが、実にさまざまな属性の人がこのゲームを利用している。未就学児(多くは親の管理下の元で

        児童文学をいまさら読む。

          創作者の一部に政治的発言が目立つのはなぜか

          オタクと呼ばれる人の中には、自分で創作する人の一群がいる。それとは別に創作専門の人もあるが、大抵はオタク的な脳構造を持っていると思う。筆者はといえば、オタクではないのだが創作者であり、脳の構造はオタクのそれと同じであるが少し違う。 高校生ごろから、新しいコンテンツに「ハマれ」なくなった。発達障害の二次障害が顕著に出てきた頃である。うつ病になるといろんな意欲がなくなり、これまで好きだったものも熱心にやれなくなるとよく言われるがそれと同じで、私はうつの脳になってしまったので、新し

          創作者の一部に政治的発言が目立つのはなぜか

          世代の群れの中に消える覚悟

          「世代」という言葉があり、ある時期に生まれた人たちの群れを十把一絡げにして捉える向きがある。思いつく限り我が国の「なんとか世代」を挙げてみたいと思う。 戦中派(戦時中に育った人たち)、団塊の世代(第一次ベビーブーム)、新人類世代、バブル世代、団塊ジュニア世代、氷河期世代、ゆとり世代、Z世代、アルファ世代。 ちなみに書き手はゆとり世代に属する。私の世代の親はおおむね新人類からバブル世代の間くらいに該当する。 私が思うに、この世代の塊はそれぞれ特徴があるものの、ある場所でとある特

          世代の群れの中に消える覚悟

          死は美しいか?地元大空襲の日に思う戦争のこと。

          夏になると私は、「先の戦争」に強い関心を抱くようになる。最近はそれに関する小説を物しているため、関連書籍を読んだりするので余計にその傾向は加速している。そんな私が、この時期についつい口ずさむ歌がある。 この記事を開いてくださったあなたは、次の歌を知っているだろうか。 海行かば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ 太平洋戦争時に第二の国歌の位置付けとして軍首脳部が積極的に用い、戦意高揚ないしは、戦局が悪くなってからは戦死の美化のため

          死は美しいか?地元大空襲の日に思う戦争のこと。

          カレー沢薫さんという面白すぎる書き手。

          学生時代に行きつけだったある喫茶店で出会った仲間たちとささやかな文芸誌を作っている。もう八年ほどになるだろうか。 その中に、数回にわたって書評を掲載している。今回は来るべき締切に向けて急拵えした書評をここに転載しようと思う(なおその文芸誌は別に営利目的ではないので、二重発表について禁止する規定はない……はず)。 書評 カレー沢薫『ひきこもり処世術』 『ひきこもり処世術』  今回紹介しようとする本の著者の名を一見しただけで、私が扱うにしてはかなりくだけた内容の書物だろうと

          カレー沢薫さんという面白すぎる書き手。

          稼げなければ意味がないのか?

          文章で稼ぐことが難しい時代だ。 おそらくごく一握りの人間は今でも文筆業だけで食べていけるが、多くの人は小遣い稼ぎ程度くらいしか稼ぐことはできないだろう。 それは、世の中が反知性主義化しているからだ。私は以前の記事にもそれを書いたのだが、資本主義……いやもっと限定的に言えば、新自由主義と反知性主義の相性は抜群。 人々は次々に新しく登場する新しい商品を買い求めることで頭がいっぱいになり、乗り遅れてはならないという根拠なき焦燥感に晒されている。自覚がない人は、本当に自覚がないのかあ

          稼げなければ意味がないのか?

          ホモ・ユニヴェルサルへのこだわり

          駄文に極めてありがちなこと。 キーワードの意味を辞典などで調べてその結果をまるっと引用する手法。この段階で多くの人がブラウザ・バックを決めるだろう。だが今日の私はこういう書き出しをしたい気分だった。 今日は、普遍人ということについて書いてみたいと思う。 普遍人(ホモ・ユニヴェルサル)とはなんだったのか。 上記の引用のように、西洋近代を準備したルネサンスにおいてもてはやされた人間類型。なんでも出来る人、今日的にいえば文系でも理系でも十分な素養を備え、正しくその知識を運用し、人

          ホモ・ユニヴェルサルへのこだわり

          コンテンツがないからと言って書くのは休むな。

          三日坊主というのは、人間にはありがちなことだ。かくいう私も、noteのアカウントを開設してからというもの、三日坊主になりつつあった。毎日のように記事を書くことは無理だと気がついて、じゃあ三日に一回くらいでいいかと思っていたら、気が付けば一週間が空いたりなどしている。 三日坊主、というのは比喩であり、文字通り三日で頓挫しなければ三日坊主と言えないのではない。とにかく続けようと思ったことが早晩に頓挫することを押し並べて三日坊主と称する。 なぜ三日坊主に陥るのかを考えてみれば、なに

          コンテンツがないからと言って書くのは休むな。

          人生の虚しさを乗り越える勇気

          人は生まれてくると、必ず死を迎えるということ。死する運命にある(Mortality)のは人だけではないのだが、人は全ての生物の中でとりわけ劇的に、自分の死を意識せずにはいられないものだと思う。 ココという名のメスのゴリラがかつていて、彼女は死の概念をかなりの程度理解していたのではないかと考えられているそうだ。 手話で人間と意思を疎通したというこのココというゴリラが特殊であった可能性はあるが、少なくとも、ゴリラの中に死の概念を理解した可能性がある個体はいたことになる。 こ

          人生の虚しさを乗り越える勇気

          世界の構造を考える。

          私が読む本のジャンルは大いに偏っている。 近代史の歴史書と政治や社会問題を扱うノンフィクション。その他、小説を書くのに必要と思った論文や研究書にも目を通していることがある(専門外なのでわかる範囲でになるが)。 小説の類はほとんど読まない。読むとしたら戦前の「文豪」と称されるお歴々の物した小説群だ。もちろん現代小説の中にも教養に富んだ読むべき本はたくさんあることは知っているが、食指が伸びない。興味の向かないものを無理して読んでも捗らないと思うので、どこか申し訳なさを感じながらそ

          世界の構造を考える。

          現実と創作と

          どの程度現実に立脚した創作をするか。 言い換えれば、私の脳がどのくらい無から有を生み出すことができるのか。 これは難しい問題だと考えている。 昨今(すでに10年以上経過していると思うが)、ネット上でアマチュア作家が文章を好きなように投稿できる小説投稿サイトが隆盛を見せている。私は、大変申し訳ないがその辺の作品を全くと言っていいほど読めない。 読まない、というより読めないのである。 素人の書いたものの場合、読むに耐えうる文章能力や構成力に欠けていることが多いというのはひとつ(当

          生まれつきのものに従って生きる

          私が最初に物語を書いたのは、学校で強制されたのが最初だ。小学二年の時、国語の教科書になにかそういうコーナーがあって、担任の策謀によって、クラスの一同が物語を書く羽目になった。 なぜ策謀という変な書き方をしたかというと、七、八歳の子どもの発達は千差万別で、物語を書くということがまったく難しい子もいるというのに、それを強制されるとつらい子もいただろうな、と思うからだ。私はなぜかそういうことが生まれつき得意だったらしいが、大人になってから家庭教師などした経験から、創造するということ

          生まれつきのものに従って生きる

          いのち短し筆執れ我。

          自らのことはあまり多くを語りたくない。 学生時代は生身の人間との付き合いもあったが、学生を終えてそれなりに長い月日が経ってくるとネット上で人と話すことが増えた。その間に年齢なりに深い悩みも増え、自分のことをあけすけに語ることのデメリットを強く感じるようになった。 このnoteアカウントはブログのように使おうと思うが、あまり自分自身の情報を提示したくないという気持ちがある。 ただ、創作のことについて語る上で避けて通れない自分語りというのがあると思う。したがって、自らが許せると思

          いのち短し筆執れ我。