世界の構造を考える。

私が読む本のジャンルは大いに偏っている。
近代史の歴史書と政治や社会問題を扱うノンフィクション。その他、小説を書くのに必要と思った論文や研究書にも目を通していることがある(専門外なのでわかる範囲でになるが)。
小説の類はほとんど読まない。読むとしたら戦前の「文豪」と称されるお歴々の物した小説群だ。もちろん現代小説の中にも教養に富んだ読むべき本はたくさんあることは知っているが、食指が伸びない。興味の向かないものを無理して読んでも捗らないと思うので、どこか申し訳なさを感じながらそれらはスルーして読書する本を選定している。
ずばり「世界の構造を知りたい」という目的のための読書。その目的に合致していないと思う本はさしあたり読まない(読む時間的余裕もない)。

私は最近になって思い当たったことに、世界の構造は大部分資本主義という化け物によって決定せられているものだというのがある。
これはマルクスの「資本論」なんかを読めばそうしたことが(すくなくとも彼の執筆当時までのことについて)ドンピシャで書かれていることと思うが、残念ながらマルクスは読むのに相当の根気が要りそうなのでいまのところマルクスに関する研究者が書いた「マルクス論」のようなものを読むことでその一端を垣間見ている程度である。
ちなみに私が読んだのは京都精華大の教員であられる白井聡氏の「今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義 (講談社現代新書)」である。

https://www.amazon.co.jp/dp/4065311969

資本主義というのは「包摂」するのだそうだ。
社会学において「包摂」とは、

社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、支え合う考え方のこと。社会的排除(しゃかいてきはいじょ)の反対の概念
(Wikipediaより引用)

であり、ハートフルな印象の言葉である。
だが、マルクス主義経済学でいう「包摂」とは、全く逆の、おどろおどろしい魔術のような概念である。
私の理解でざっくりとマルクス主義経済学の「包摂」の定義を言えば、「資本主義が人間の手を離れて勝手に膨張していく過程で、人間がその埒外で生きることが困難になり、知らず知らずのうちに生活や人生が、利潤追求のための諸構造に絡め取られていき自由がなくなること」である。
たとえば、現代社会において私たちが企業から離れて生きることは困難になっている。フリーランスで活動したとしても、企業から仕事をもらうこともあるだろうし、そうしなければ立ち行かない個人事業主も多かろう。企業が生産した商品を使わずに生きることが可能だろうか。それはあまりに不便だ。田舎で自動車がなければ生活の制限が著しい。スーパーに行かずに全てを家庭菜園で賄うとして、動物性タンパク質の類は諦めるのか。
こうして考えてみただけでも、資本主義の具現物である「企業体」と離れて生活することは、不可能だ。
そして恐ろしいのは、我々の精神すらも、資本主義に「包摂」される。
私のアイコンを見ればわかると思うが、私はいわゆるアプリゲームのたぐいをやっている。ユーザーの中は新しいガチャが販売されると、お金のことを考えずに脳死で回す人もいる。もちろんある程度余裕があるからこそそのような振る舞いができるのだろうが、中には次のガチャが出た時に「どうしよう、もう今月使える分がないよ!」と言っている人もいる。
私は金勘定にうるさいので、課金するにしても「今月使用していい分がこのくらい、このガチャはあまり好みではないからスルー、もし月末に余裕があれば回す」などということを常に考えている。
前者に比べて後者は偉いか?思慮深いか?そんなわけではない。
前者のタイプの消費者も、後者のタイプの消費者も、ガチャという商品に精神を追い回される哀れな迷える羊でしかない。言うなればストレイ・シープ・コンシューマーである。
この記事に目を通してくださった読者の中には、心当たりのある方もあるだろう。アプリに課金なんかしても無駄、と思う人もいるかもしれないが、他のところで、どの商品を買うかについて頭を悩ませているのは日常ではないか?たとえば、家、車、趣味のバイク、釣り用具。そして、極め付けにスマホ。なんでも良い。
私たちの精神は、かなりの部分を資本によって「包摂」されてしまっている。

資本は、消費者に何を求めているか。
何も考えないことである。
何も考えずにガチャを回す。何も考えずに新商品に飛びつく。気がつけば、リボ払いが当たり前になっている(資本主義がもっとも猛威を振るう国・アメリカにはリボ払いをしている人が多いらしい)。
逆に、私のようにどの商品がよいか吟味するような消費者ばかりでは困る。みんなのお金使いが慎重であれば利潤が伸びないからだ。
利潤を伸ばして膨張することこそが、資本の本能である。
資本とは、私たちの手を離れてどんどん大きくなる制御不能の怪物である。ある意味、原子力に近いとすら言えるかもしれない。原子力は爆発を起こしたら体を完膚なきまでに打ちのめす怪物だ。資本主義は、脳を打ちのめす。

資本主義は反知性主義と相性が良い。
消費者に知性があっては困るのだ。露悪的に言えば、消費者の群れ(ストレイ・シープ・コンシューマー)には馬鹿でいてほしい。
反知性主義と排外主義は相性が良い。
排外主義とは、外国人嫌い、自分と異なる者を排斥する主義で、そこにはほとんどの場合理性的な考えは希薄である。理性は、肌の色、言葉の違い、文化の違いを超えるものだ。そこには対話が生まれ、理解しようという努力、どうしたら理解できるのかという試行錯誤がある。反知性主義と排外主義がタッグを組んだ最も悲惨な事例は、いうまでもなくかのホロコーストであり、最近ならば、ガザでパレスチナ人たちに降りかかっている状況だ。
資本主義と反知性主義、排外主義の三者関係。これらは三つ巴に作用する。悪の三角形と言って良いと私は思う。

創作の話を書いていたのにいきなり社会科学の話になったが、私はこういうことも考えながら執筆活動をやっている。

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