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誕生日の夜に「これからの教育」を思った話

先日、無事に2020年の誕生日を迎えることができました。

今まで生きてきて、大きな怪我も病気もなくここまでの人生を歩んでこれたこと。それ自体に大きな感謝であります。そんな体に産んでくれた親と、いつも支えてくれるデジタルフィジカルで繋がってる方々と、体を大切に労わり自分と向き合う自分のココロと。

そういえば今年は、勤め先の人々に不意の小さなお祝いがあって、それがじんわりと嬉しかったです✨

ささやかなカレーパーティーをお昼に開催とか(なぜカレー?)

巡回で立ち寄った現場で不意に普段注文しないような飲み物奢ってくれたり。

雑談してた時のモンブランの話題を覚えていてくれて買ってきてくれたり。

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久しく会っていない、かつて一緒に仕事をした元スタッフくんが日付変わって1時間もしない深夜一番にメッセージとeGIFTくれたり(彼女かよw)

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つくづく人に恵まれているなぁ…と。そしてその大半の方々は「教育」という、僕にとって大切なもので繋がれたことが感慨深いです。

不惑の誕生日に人生の第2フェーズ突入をぼんやりと感じ

そこから新たなる人生創りを模索し始め、時代は令和を迎え

そして今、数年前は想像もできなかった2020年の秋を迎えました。

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ここ数年で感じる「これからの教育」について、僕自身が体験したり関わったりした経験を踏まえて、なるべく具体的に綴ってみたいと思います。


【幾つになってもオルタナティブに学ぶ】

「きょういく」という言葉はとても幅広いです。年代や切り口によって意味合いは多岐に渡りますが、大きく分けると2種類に分類できるかな、と。

左脳的・実務的・ビジネス的・論理的・テクニカルなもの
右脳的・哲学的・アート的・情緒的・スピリチュアルなもの

いろんな分野の教育や人に触れていて、小中高大学生と2万回近い対話と接点を持って感じる、僕なりの分類です。

「これまで」って、大人になると右脳的な学びをする人がどんどん減っていって、学ぶとしても左脳的・ビジネスよりなことになりがちです。そして教育界隈では「右脳・感性に関する学びは5歳まで」みたいな通説があったりもします。

これは部分的には正しいかもしれませんが、だからと言って右脳や感性を刺激する学びを大人になったらやらない、というのとは違います。令和になり「これから」においてこの二つの学びを幾つになっても行ったり来たり、振り子のように学ぶことが大切になったと強く感じます。

「alternative」という言葉は直訳すると二者択一という意味になりますが、教育においては「隙間を埋める教育」みたいな意味を持ちます。

日本では「勉強」「学び」というと、どうしてもテクニック論や実利的な学びと捉えられがちですが、一見実利にならなさそうな哲学的な情緒的な学びを、日常の隙間を埋めるように嗜んでいくことは不確実性の高い時代には有効です。

数年前に学んだのですが、「カネヴィンモデル」でも似たようなことが書かれていますね。

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この図でいえば「これまで」は右下。それがコロナで一気に左上に。「これから」に最適化される学びって

◆対話≒リラックスして話してみて、生まれるざらつきや閃きを大切に
◆創発・プロトタイピング≒とりまやってみて、後から徐々に直そう!

こんな感じが、良い感じ✨

左下の世界に突入する時期も近づいているかも…。


【それでも受験は人生で大切なイベント】

新しい世界の到来は、ややもすると過去を否定します。学歴・偏差値が人生の勝負を分けていた過去があり、その過去の成功法則が通用しづらくなると急に否定論者が増える。かくいう僕も否定論者っぽくなりかけていた時期もありました。が、なかなかどうして受験の大切さ・意味や価値は簡単に消えないかなぁ…とも思うようになりました。変わることはあっても。理由は二つあります。まず受験や学校の仕組みもどんどん変わっているから。下の動画はOIST(沖縄科学技術大学院大学)の紹介動画です。

いやーすごい。リゾートホテルのようです。僕が行きたくなります(笑)

ここ、大学院ということもあっていわゆる試験はありません。面接とかエッセイとか。入りたい理由・研究したいこと・それを玄人にも素人にも語れる熱量。そういうものをじっくり見られるのです。

学部でも面白いのはこんな感じのものも近々始まります。

大学の授業でアントレプレナーシップを学ぶものはありますが、学部として独立して行うのは初の試みのようで…。講師の質も「これまで」から変えてきています。

「これから」はこうした大学・学部は当たり前のように増えます。それに伴って受験の仕組みや求める人物像も、今までの受験制度とは異なってくるでしょう。

受験が価値を持ち続けると思うもう一つの理由。それは物語としての受験・経験体験としての受験は人生の大切な思い出になる、ということです。素晴らしい受験体験にはある種の祝祭性が宿ります。それは文化祭や合唱祭のような。努力し、うまくいかない壁を乗り越え、時には涙することもあり、仲間ができ、成長し超えていく…。これらのことを10代で多くの人が経験しうる機会を手にすることができる。そうした意味ではとても大切な時間になるはずです。ここは人間の根源的欲求とも深い繋がりがあるなぁ…と思っています。「これまで」も「これから」も変わらない大切な成長の機会。

僕もたくさんの教え子ストーリーを肌で感じてきました。

逆に考えれば、そうした経験なき受験はほぼ意味や価値を無くします。親のためでも、誰かに褒めらえれたくて始めた受験でも良いですが、やる以上はドラマチックな体験を…。周りの大人のサポートが肝ですね!

「これから」の大人サポートは観察力と寛容性が肝。


【新時代到来の中、旧来を受容できるか】

本当の意味でのダイバーシティーを考えると、嫌いなもの・古いものとどう向き合うようになるのでしょうか。これからの教育を考えるにあたり重要な問いです。

🔳新しい時代に受験や学歴など無価値になる

🔳これだけ不確実性が高い中で政治はちっとも変わらない

🔳時代はDXなんだ!ICTをつかいいこなしてナンボよ!

🔳女性活躍を叫んでも、まだ世の中は変わらない・・・

どれも正しくも聞こえたり、なんか違うイメージにも感じたり。この手の議論をしだすと、とかく「どっちが良いのか?」みたいな二元論になりがちなのが「これまで」。この二元論ではない世界へ飛び越えていくことに「これから」の価値を感じます。

「みんな違ってみんな良い!」というメッセージもよく出てきますが、もう少しリアルに考えるとですね…

◆自分が嫌いなものや心のざらつきを認識し言葉にする

◆それができた上で相手がなぜ自分とは異なる価値観なのかを想像する

◆その上で対話をしながら「どう折り合いをつけるか?」の作戦建てをする

◆できれば足して2で割ったか、全く違う第3種を作ってみる

こういうプロセスをたどっていくことが、教育においてあちこちで必要になってくるのだろうと思います。大きく時代が変化する今は旧来が否定されがち。既得権益を肯定するという意味ではなく、過去を受容した上でどう融合させようか?と対話から始まると色んなものが思いもよらない方向に好転しそうな気配がします。


【抽象度の高い哲学や問いの価値】

僕が大学生の時「哲学・倫理学・宗教学」という一般教養の授業がありました。略して「てつりんしゅう」と呼ばれる授業。当時は1ミリも価値を感じることができませんでした(笑)

でも「これから」を思い強く感じるのは、老若男女関わらず、抽象度の高い哲学的な問いを立て、考え議論するのは大きな意味と価値があるなぁ…ということ。

入試制度の変更もあって、2020年は国際バカロレア(IB)について話したり考えたり、勉強会に参加したりすることが増えました。その中で小4の子たち向けの問いで実に面白い問いに出会いました。

広告は私たちの考え方や価値観や選択にどう影響を与えるか?

SNS・デジタルが世界を覆う今こそ深い問いですよね。マスメディアの時代を振り返っても、この功罪はもっと議論されても面白いかもしれません。

最近は大学でも教育界隈でも、何でもかんでも「社会に出て役に立つように!」と言われるようになりました。僕もよく言ってます(笑)

が、どうも最近ここにもモヤモヤが湧いてきました。皆んなが皆んな、社会に出て役立つようにとか社会に最適化されるように考えて動き出したら、結果なんの個性も特徴もない、のっぺりした社会になりそうな…。ひたすら具体的で即効性のあるものばかりに飛びつくのも違うよなぁ…と。

一見遠回りでも深く考え、自分と向き合える時間を創り出した方が良い。自分のココロに訊く時間を今まで以上に沢山摂る。そこから新たな好奇心が育まれたり、ビジネスポイントになったり、ボランティアなど活動の機会になったり…。

一見すると実利に繋がらないような学びの中に、自分を知り世界を知る面白くて大切な時間があって、その価値が加速する未来を感じます。


【教育が溶けて形を無くす「これから」】

僕は民間教育に従事していますので、こういうことを書くのはなんとも変な気分がしますが…。でも、おそらくIT界隈の方がユビキタスコンピューティングが当たり前になった先に「仕事のジャンルからIT業界は無くなる」と仰るのに似た感覚なのかなぁ…と思います。

老若男女が幾つになっても…ということは今よりももっともっと日常に教育・共育・学びがあるようになるはずです。それはつまりユビキタスコンピューティングのように、デジタルネイチャーのように、あらゆる場にシームレスに入り込んでいくことがごく当たり前な訳で。日常に教育が溶けていく。

リカレント教育・地域社会で支える幼児教育・官民連携で行う受験支援とかが今よりももっと広がったら、その未来は確実に近づいていると言って良いはずです。そしてそういうコミュニティが同時多発的に生まれて、対話から生まれたアイディアに新たな価値が宿る時代が令和という時代な気がしています。

こういう考え、多神教の日本には相性が良いと思いません?で、それらが整理されて言葉やデザインになると、それはNeo Japanesqueとして世界に誇れる価値と精神性を纏うのだと思います。


150年続いた「これまで」に最大限の敬意を表明しつつ、「これから」を動かしていく時代に突入✨

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