鎌倉と明治の皮の話

 日本中世史の研究家である本郷恵子氏の『怪しいものたちの中世』(角川選書、2015)を読んでおりますと、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』の一話を紹介しているなかで、

 このあと遊女は、ともに一夜を過ごした者同士でなければわからない事実を述べ、それに対して鋳物師が明白な反証を示す。あまり格調の高い内容ではないので省略するが(もちろんこの話全体の格調が高くはないのだが、それにしても書くのがはばかられる低さなので)、興味のある方は『古今著聞集』の原文を参照していただきたい。

『怪しいものたちの中世』(p. 41)

 という個所に出くわしました。

 低調な話には目がない私としましてはこれは見過ごせません。早速『古今著聞集』に手を伸ばしました。

 該当の説話は巻十六「興言利口第二十五」中の「近比天王寺よりある中間法師京へ上けるみちに」よりはじまるやや長めの物語です。
 問題の部分まで要約してみますと、

 京都を目的地とする同士、中間法師・山伏・鋳物師の三人はつれだって旅をすることにして、途中今津のあたりで遊女がやっている宿屋に部屋をとった。
 やがて夜も更けた頃、不意に山伏がごそごそと自分の髪をいじりだし、かたわらでぐっすり眠っている鋳物師の烏帽子をかぶると主人の眠っている部屋に向かった。
 鋳物師に化けた山伏が戸を叩くと、
「どなた?」
 すぐに女将の声が返ってくる。
「本日寝床を借りている者です。見ればお宅はかまどが二つあるのに肝心の釜がひとつしかありませんね。私は鋳物師ですから、よろしければ一つ調達いたしますよ」
 鋳物師に化けた山伏は言葉巧みにつけこんで、よろしく部屋どころか女将のふとんの中にまでもぐりこんでしまった。
 その後、山伏は部屋にもどり髪を元通りにして「折角ごいっしょしたいと思いましたが、急用ができまして、これから先に向かいます」と残りの二人に告げるとさっさと出ていってしまった。
 翌朝、女将は鋳物師に「昨晩の約束した釜を早く出してちょうだい」と詰め寄ってくる。なんのことだかわからない鋳物師が断ると「しっかりやることだけやってそんな図々しい話があるもんですか。こっちには証拠があるんですからね!」と烏帽子を突き出す。山伏は女将の枕もとに残しておいたのだ。
 それでも鋳物師は身に覚えのないことだと頑として突っぱねてしまう。

 と、ここで上で引用しました、書くのがはばかられるほどに低俗な遊女の主人と鋳物師とのやりとりがくるわけです。

 主人は言います「年は寄りたれども、ちうぼうは六寸ばかりにて、若者よりはしたたかにしたりつるは」と。
「年はくっていると思っていたけど、ペニスは十八センチはあって、若者よりよっぽど硬くてたくましかった」くらいのところでしょう。

 それを聞くなり鋳物師は「天道神仏の加護はありがたいものだな! これがその立派ないちもつか!」とおもむろに自分の物をさらけ出します。
 飛び出したのは「わづかなる小まらのしかも衣かづきしたる」ものでした。
 わずかなる小魔羅とわざわざ二重で小ささを強調したうえで、衣を被っているつまり包茎だといっております。

 自分の証言をくつがえす物証を突きつけられては女将も言葉もありません。泣く泣く釜をあきらめるのでした。

 なるほど、本郷氏の説明にたがわないかなりの格調の低さです。
 それにしても、女将の方では腹を立てながらもそれなりに褒めてくれているわけですから、鋳物師も満更でもなく思いそうなところですが、それよりも商売ものの釜をとるあたり鎌倉の時代から大阪商人の商魂たくましさを見せつけられる気がします。

 さて、これは七百年ばかり前の大阪でのお話ですが、それから六百年ばかり経過しました明治の時代、舞台はやはり大阪、この地で「滑稽新聞」という新聞(といいましても日刊ではなく二週間に一度の隔週刊ですが)が刊行されておりました。

 主筆は宮武外骨。へそまがりのつむじまがりで、他人と同じことをするのが大嫌い、権力者や金持ちをおちょくることに生涯をかけたジャーナリストで、百二十を超える雑誌・単行本を刊行し、その内容のために入獄四回、罰金・発禁二十九回を数えた奇人です。

 その「滑稽新聞」第十四号(明治三十四年九月二十五日)「明治発明家列伝」という連載記事の第二回が掲載され、そこに丸山萬五郎なる人物が「包茎無痛切開発明者」として紹介されています。

 記事によりますと、この萬五郎氏は売薬での利益を使って生司院という治療所を設立、そこで「最も哀れむべき悲しむべきまた恥ずべき包茎者に対し無痛切開の大手術を発明した」とのことなのです。
 この大発明により門前市をなすような有様で、東京芝区に第二生司院を、さらに大阪・名古屋に第三、第四の支店を出したというのですから、かの高須院長の八十年ばかり先達ということになりますか。
 もっとも外骨の文章は「無痛は患者の方でなくて施術者の方だという」と締めくくり、途中も皮肉やあてこすりにまみれていますので、丸山萬五郎の糾弾を主旨としていることは明らかですが。

 それはともかくといたしまして、鎌倉時代でしたら姿形に関係なく堂々とさらけだしたものが、六百年後の明治の世では「最も哀れむべき悲しむべきまた恥ずべき」とまで蔑まなければならなくなるとは、商魂と比べると人の感性というのは変われば変わるものです。

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