CD世代の落語この人この噺「七段目」(桂吉朝)
ちょっとこれまでのタイトルが言葉不足だったので補わせていただきました。
娯楽というものが非常に限定されていた江戸時代、吉原はいわずもがな、相撲見物も女性の観戦が許されるのは千秋楽のみという状況では、男女ともに楽しめる筆頭は、なにをおいても芝居となっておりました。
その芝居のうちで代表格となりますと、これは「忠臣蔵」にとどめをさすでしょう。
今でこそ目にする機会も減りましたが、20年ばかり前までは年末となりますと、いずれかのテレビ局で時代劇の特別番組として忠臣蔵が放送されるのがお決まりで、コントやバラエティ番組でもなにかとパロディが作られているぐらいでしたから、視聴者でも内容は概ね頭に入っているという具合でした。
現代でもこの具合ですから、明治や江戸の時代であればなおのことで、場面のひとつセリフのひとつまでもだれしも承知しているという感じだったと想像にかたくありません。(とはいえ、江戸の忠臣蔵、「仮名手本忠臣蔵」は今のものとは扱う時代も登場人物も筋立ても違うようですが……)
ですので、同時代を過ごしてきた娯楽の落語には、忠臣蔵に題材をとったものが多くあります。
実在の役者が忠臣蔵の役柄に思い悩む姿を描く「中村仲蔵」「淀五郎」、芝居好きの丁稚が主人から懲らしめを受ける「四段目」(上方落語では「蔵丁稚」といいます)などがその代表例でしょうか。
今回紹介する「七段目」もそんな噺のひとつです。
登場人物は若旦那と大旦那、その間をとりもつ番頭に、丁稚の定吉と少なく、そのうえ舞台も商家の家内と限定されているコンパクトにまとまった噺です。
ですが、芝居狂いの若旦那が、ことあるごとに芝居の登場人物の老若男女の隔てなく物まねをくり出すので、いかにも大人数の入れかわり立ちかわりのドタバタさわぎのような雰囲気が楽しめます。
私は、特に、前半の大旦那が小言をいうたびに、スイッチの切り替わったように次から次へと若旦那が声色を変更してやり返すテンポのよい場面が好きで、若旦那は演技に酔って恍惚としていき、それを見てどんどんと大旦那も激高していく情景の盛り上がりに毎度吹き出してしまいます。
そうした個所も含めて心地よいリズムと化けっぷりを聴かせてくれたのは桂吉朝でした。
録音が収録されているのは『おとしばなし「吉朝庵」 その4』(TOCF-55063)です。
吉朝の噺は聴いていてちょうどいいんですね。
別に関西に限らないとは思うのですが、ただ特に関西人は、口調や早口、ネタの重ね方なんかが過剰になりやすい傾向にあるように感じます。それがごちゃっとしてくどい印象を持たれやすい原因になっているのかと。
そのあたりが吉朝は本当にちょうどいいんですね。
もちろん上方落語なので関西弁ですし、特有のねちっこさはあるんですが、それがしつこくなり過ぎないところで切り上げてくれる。節度のある話しぶりなんです。
その節度はこの録音でもしっかりきいていて、冒頭のマクラで実際の歌舞伎の体験談をして、「七段目」が歌舞伎の仮名手本忠臣蔵を扱う噺だということをあらかじめ知らせて、噺本編の準備をしてくれるので、聴いている方も非常にスムーズに演目の世界に入っていけるんです。
そして話しぶりにも抑制がきいているあたりも、この「七段目」と非常に相性がいいのです。
噺の都合上、若旦那が役者のまねごとをしている時間が非常に長いのですが、このまねごとが本当にまねごとっぽく、ほどほどに素人くさいんです。
ここをうまくやり過ぎてしまうと、若旦那じゃなくてその演じている人物になってしまうのですが、例えば甲高く女声でしゃべってみてもちゃんと若旦那の顔がちらつくようになっている。
それがあるから、お小言の最中にふざけているように見えて、大旦那の腹立ちもわかって、いよいよおかしく感じられてくるのです。
これが後半の定吉と二人で、じっくり忠臣蔵の七段目を演じるあたりになると、それまでいたストッパー役の大旦那や番頭がいないので、じっくりと演技に身が入ってだんだんとヒートアップして本当の役者の声色になってくる。
前半の大旦那とのやりとりがある分、ここで聴く方も身を乗り出して聴いてしまうんですね。
そして、さらにここからサゲに向けてもう一展開あるのですが、そこでのギャップの落差とある程度期待していたものがきたという両方が楽しめるようになっています。
予想はある程度裏切りつつも期待は裏切らない、しっかり笑った後に満足感が残るところまで含めて吉朝のちょうどよさを味わえる演目になっています。
CDは同時収録の「愛宕山」も含めて、はめものという、三味線の伴奏に合わせたしゃべりも楽しめる一枚となっています。
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