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『大洗の本』第5号を読みました 大洗文学全集 第5巻

 もう三週間も経ちますが、ゴールデンウイークには私も茨城県大洗の地を踏みまして、見事な五月晴れのもと、大洗磯前神社やおでぃば山など名所旧跡をまわり、揚げ物や蕎麦、ケーキにたこせんにアイスに干し芋にとペース配分もあったもんじゃない衝動的食べまくり一人旅をおなかいっぱい味わってきました。
 そうして夕方も近づいた頃、ようやく食欲中枢が冷静さを取り戻して、あわてて名物書店江口又新堂さんにお邪魔して、大洗旅行の目的の一つだった本を無事購入できました。
 茨城県大洗地域の地理・歴史・文化など多方面からの記事を集めた総合的な郷土誌『大洗の本』。
 年1回発行の今年分の第5号となります。

『大洗の本』第5号(大洗町教育委員会)

 分厚い!

 去年の第4号もかなりのボリュームだったのですが、今回はさらに紙幅を増し、なんと五割増しとなっています。毎年確かな分量、どころか号を重ねるごとにページを伸ばしていることに、大洗という土地の汲めども尽きせぬ豊かな魅力と、なによりそれを愛し大事に思う人々の存在を強く思わずにはいられません。

 とはいえ、郷土誌はなにかと専門的なものになりやすく、なかなか他地域の人間からは手を伸ばしにくいのも実情だと思います。
 実際、バリバリの部外者にして門外漢な私では、一通り読むのに一週間ほどかかってしまいました。けれども、そこは歯応えのある分、読み終えた満足度もひとしおです。
 以下感想を書かせていただきましたので、本号に限らず、まだ読んだことがないという方に興味関心持ってもらえたら幸いです。


「磯浜古墳群はどのように把握されてきたのか(一)」蓼沼香未由

 大洗一帯は関東有数の古墳が密集地域であり、さらに質の面でも日下ヶ塚(常陸鏡塚)古墳の副葬品は奈良県の富雄丸山古墳のものとの類似が指摘され古墳時代の東西交流の点などでも貴重な史的関心を常に提供していました。そうした貴重性が評価され、令和2年に磯浜古墳群が国の史跡としての指定を受け、現在は一般にも注目を集める機会が増えています。
 その大洗の古墳は、現在のような整備された学問としての考古学的な取り扱いを受ける以前は、どのように認識・理解されていたのか。文献資料より読み解いていきます。
 正確にはわかりようもないけれども、なんらかの意図をもった存在として、その何かを把握しようと努めた、古の人々の知的好奇心と畏怖の気持ちが、時に年代などまったく合わない奇説であっても、いえそれが奇であればあるほどに熱意が伝わってきます。

「戸籍区・大区小区制の施行と役職者」海老澤正孝

 大政奉還と明治維新により近代日本は誕生したわけではありますが、政権の主体が将軍から天皇に移り変わって「それじゃあ今日から新しい時代だ!」と、全てを刷新して近代国家が新しく姿を現したわけではもちろんありません。
 なにしろシステムからそれに携わる人まで、ほとんど一から作り直しという状況でしたので、朝の決定が夜には覆っているというような事態は日常茶飯事で、三歩進んで二歩下がるな大混乱が日本全国で起こっておりました。
 それは戸籍、国の人口把握になにより必要な制度においても例外ではありません。
 廃藩置県以降の現在の四十七都道府県の決定にいたるまでもかなりの紆余曲折を経ています。特に大洗地域は茨城県・新治県・千葉県の3県の管轄の混乱により、短期間で県自体の変更、内部の区割りの変更を何度となく体験しており、その複雑さは一言では言い表せません。
 そのあたりを順を追って解説してくれているのが本稿です。
 正直、専門性は本号のうちでも際立って高い1編ですが、明治初頭の混乱期の雰囲気を知るにはもってこいともいえます。

「皇国地誌と『大日本国誌 常陸国』 -『濱鴴録』との関わりも交えて-」由谷裕也

 専門性の非常に強い論考が続きます。
 皇国地誌とは、奈良時代の『風土記』をお手本として、明治政府が日本全国の各市町村の名所旧跡や名産などを文章としてまとめた地誌を編纂しようとした事業と刊行されるはずだった地誌そのもののことを指します。
 明治初期に開始されたものの『大日本国誌 安房』1巻の刊行を見たのみで明治中頃には途絶し、集められた資料も関東大震災による火災で大部分が散佚したとされています。
 その後、火災を免れた資料などを編集して『大日本国誌 常陸国』は1980年代に出版されるのですが、その内容や形式が『大日本国誌 安房』と大きく違っていると本稿の著者は主張しています。その差異はどこからきているのか、皇国地誌編纂の際に集められた資料をもとに書かれたと思しい『濱鴴録』などの資料をもとに考察されています。
 こうした、いってみれば国の内外に日本の詳細を知らせる基本資料の製作にあたっても、新政府内部が一枚岩でなかったことがうかがえてきて、やはり明治初期の混乱具合が伝わってきます。

「武石如洋とホトトギス」高増慧

 明治の時代は、正岡子規の影響がとても大きく、俳句を詠み、写生文を書くという行為が広く流行しました。
 大洗でもこの潮流は例外ではなく、その際、東京の俳壇ともつながりのあった武石如洋が果たした役割は小さくなかったようです。
 本稿は明治11年に生まれ、磯浜町などで医院を開設していた医師であり俳人でもあった武石如洋の概略と、明治に至るまでの日本の和歌の流派についての解説、および明治の俳句雑誌「ホトトギス」に掲載されたものを中心とした武石の句を掲載しています。
 明治から昭和初期にかけて、人々の生活の中に、ちょっと背伸びをしたい存在として俳句があったことが実感できます。

「おうい雲よ ―山村暮鳥と大洗―」加倉井東・浅井敦

 明治から大正にかけての詩人山村暮鳥は、ダダイズム的な文字の組み合わせで抽象的幻想的なイメージを奔放に扱う初期から、童謡をテーマとして身近な景色や出来事を朴訥とした言葉遣いながらも味わい深く鑑賞させる後期まで、幅広い作風で知られています。
 早い晩年を大洗で過ごしていたことは文学史でも知られているのですが、その生活にまで踏み込んだ解説は没後の詩集などでも多くありません。
 そんななかで、暮鳥がいかに大洗という土地を知りそこに落ち着くにいたったのかを、残された詩や文章など作家自身の言葉で語ろうとしてくれるのは、詩人の生涯に興味のある人はもちろん大洗の土地へ関心を持つ私達にも、生きた言葉として実感を伴い響いてきます。
 暮鳥の妻の文章の、夫に寄り添い、非常に共感を強くする日記の言葉が引用されているのも貴重です。

「写真で見る戦時下の大洗」藤田昌雄

 大洗の名物書店江口又新堂さんに残された、日中戦争での出征における記念写真から当時の様子を読み取っていきます。
 掲載されているのは、当時の江口薬店店主(以前は薬店も併せて経営されていたとのことです)であった江口隆介氏が、昭和12年7月に宣撫官として召集を受け出征するにあたり、町長に報告におもむいた際の挨拶の最中に写したものが1枚と、現さくらい食堂さん付近で撮影されたとされる町会の人々に万歳三唱を受けているほぼ同じ構図の写真が2枚です。
 同時に掲載されている新聞記事によればこの出征の壮行会は7月7日に行われたものとされていて、それを信じるならば奇しくもその日は盧溝橋事件当日であり、時代の大きく移り変わる境目を捉えた貴重なものといえるでしょう。
 とはいえ、特に後者の万歳の写真は、大人たちが大きな身振りで腕を振り上げているのをしり目に、道標の石に腰掛けてぼんやりとおかっぱの女の子が見ている形になっていて、なんとはなしの緊張感の抜けた雰囲気があり、急を告げる風雲がまだ届いていないギャップを感じます。

「『川口部落移転記念碑』を読む」千葉雅弘

 昭和十年代に起こった二度の川の氾濫によりそれまで暮らしていた集落ごと移動を余儀なくされた顛末を、残された石碑の文面から推察してゆく一編です。
 碑の文章は簡潔で、私なんかでは必要最低限度のことしか書いていないように思えてしまうのですが、列挙された住民の人数から戸数を推測し古地図の住居らしき記載と照らし合わせて生活圏内を考察してゆくなど、人の生きた痕跡の丹念な追跡にうならされます。

「テレビドラマ小説原稿『雲は流れる』 ―作家郡司次郎正が想像して書いた山村暮鳥の晩年―」郡司丈児

 昭和6年に発表された小説『侍ニッポン』で時代の寵児となった作家郡司次郎正が、戦後落ち着いた先となった大洗にて、そうした生活の先輩にあたる山村暮鳥の晩年をテレビドラマ脚本の形で執筆した作品の全文と解説を掲載しています。
 時代設定は大正13年と暮鳥の没年に合わせているものの、途中で石川啄木の様子について心配する会話があったり(啄木は明治45年に死去しています)するので、ほとんど歴史的な考証はしておらず、そうした点に重きをおかない、かつて文壇をにぎわしつつもその後都会を離れた場所で隠棲することとなった暮鳥の生活に自身を照らして、その窮迫具合を描こうとしたことが目的の作品と感じられます。
 新しいメディアであったテレビに果敢に挑戦しようとする作家の資料としても面白く読めますし、後半に書かれた解説での郡司次郎正と山村暮鳥との共通点とそこから次郎正の感じたであろうシンパシーを読み取っていくところは更に興味深いです。

「大洗高等学校の『ながみね探究』」沢畑雅彦

 実はこれを一番楽しみにしておりました。
 前号『大洗の本』第4号に掲載されていた、大洗高等学校の生徒が主体となって自分達の住む町についてを探究していく総合学習の、その経過の発表です。
 班に分かれてテーマを決定しているのですが、どちらもいわゆる教科書的な優等生っぽいものではなく、本音の興味関心がしっかり現れているのが頼もしいです。
 班の例を挙げますと「シーサイドステーションを盛り上げたい」「BLUE-HAWKSを広めよう」「大洗観光とガルパンについて」「大洗町グルメマップをつくる」「大洗にスケートボードパークをつくろう」「アクアワールドを広めたい」「磯浜古墳群の観光化について」
 どれもこれも面白そうで嬉しくなってきます。自分のぼんくら高校時代を考えると、とてもこんなしっかりとしたテーマを決めることなんてできなかったですから、もうぽかんと口を開けっぱなしです。
 今回はその各班の1年間の探究の経過が書かれていて、概況ながらも具体的な固有名詞を交えて過程が書かれているので、とてもわくわくとしてきます。
 まさに大洗という場に住む人達から見た、今とこれからが表現されていて、どうあっても観光客という観点にしか立てない私との相違をとても大事に受け取らせてもらいました。
 これからも展開が気になるところではあるのですが、著者の沢田氏は今年をもって大洗高校から転任されたとのことで、今後こうした経過報告がなくなるかもしれないというのがちょっと心配です。
 いや、高校生達は真面目にこれからも探究を続けていかれるのですけどね。

「安住した馬歴神の碑」「碑 鎮守八幡祠記」江口文子

 江口又新堂の店長さんによる、この『大洗の本』ではすっかりおなじみになったエッセイ2編。
 かつて道端に転がっていた石が実は馬歴神という神体を祀った碑の一部で転変を続けたうちに安住の地にたどりついたという話と、十日妻と通称される尼さんの縁起について八幡神社に立てられた碑を紹介する話となっています。
 どちらも学術的な示唆に富みながらも、読み進めやすいおだやかな語り口調のような文章でまとめてくれているので、それぞれの縁の不思議さを素直に飲み込めて、提示される疑問にもつい自分の事のように思索を広げてしまいたくなります。
 特に馬歴神は、馬と猿の関連と、大洗の河童伝承などかなり面白い展開ができるんじゃないでしょうか。

 全11編大変に読み応えがあり、自分の能力では、正直なところ文意を正確に読み解けたかどうか心もとないところも多いのですが、それでも非常に刺激的な文章に満ち満ちておりました。
 ただ、贅沢をいえば、『大洗の本』第2号に掲載されていた、ありし日の古川酒造店さんの姿や、かつての大洗の写真などのような、大洗に暮らす人による過去現在、そして未来についての文章がもうちょっと増えるともっと馴染みやすい本になるように感じます。

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