「茶碗の中」の中

 先日、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)「茶碗の中(In a Cup of Tea)」の輪読に参加させていただきました。
 ただ、残念ながら、ぼやぼやしているうちにタイミングを逸してしまいまして、コメントすることができず、ぽつぽつと考えていた疑問を提起することができませんでした。
 しばらくは、なにかに発表するということもないでしょうから、備忘録がてらこちらに書かせていただきます。

「茶碗の中」

 小泉八雲(1850-1904)の「茶碗の中」は1902年に出版された『骨董(Kotto)』という、日本の伝説や怪談をまとめた作品集に収録された1編です。他の作品同様、こちらも原文は英語で、基本的には日本国外へ向けて発信された著作となります。
 八雲の著作は既に原文は著作権が消滅しておりますので、『骨董』も英文はネットですぐに閲覧することが可能です。

http://www.gutenberg.org/ebooks/55473

 また、日本語訳のなかでも、訳者著作権が消滅したものがあり、作品自体を読むことは難しくありません。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/card59429.html

 ただ、流石に時間が経っているので、訳語などに時代が感じられますね。

 かんたんに概要を書きますと、

 江戸時代前期の正月、ある大名が江戸への挨拶の参観のために上京途中、本郷白山で一時の休憩を行っていた。
 その際、お供衆のひとりで関内という名の若党が、喉の渇きを覚えて一杯の茶をいれた。
 すると、そこに、見知らぬ青年の顔が写っていた。
 左右や背後を見まわしてみても、そばにはだれもいない。
 一度中身を捨ててみても、汲みなおした茶碗のなかに、やはり青年の顔はある。見目麗しいなかなかの美男子だ。
 恐怖を覚えないでもなかったものの、そこは武士として勇気を振り絞って中身を飲み干した。
 その日の夜、主人の屋敷でひとりで当直にあたっていると、室内に突然どこからともなくひとりの人物が現れた。
 それは昼間茶碗の中に写った青年その人だった。
 名前を式部平内と名乗ったがやはり覚えもない。そこで冷淡にあしらっていると、式部という若者は、なじるように追及してくる。
 堪えかねた関内は抜刀し、おもむろに貫こうとしたが、するりと身をかわした式部は壁に身を寄せると、そのままするりと通り抜けてしまった。
 報告をしてみても、だれも青年の姿を見たものもなく、式部平内という名前に心当たりもないという。
 さらに翌日の夜。関内は非番で家にいたところが、深夜になって来客が告げられる。
 刀を携えて玄関に出てみると、三人の侍が待ち受けていて、全員式部平内の家来であるという。
「昨夜主人は貴殿を訪ねた折、傷を負わされた。現在湯治場にて療養を行っているが来月十六日にはお戻りになる。その際には、必ずそれ相応の報復を行わせて……」
 口上をすべて言わせず、関内は再び刀を抜き、三人の侍に切りつけた。しかし、男たちは隣の建物の壁に飛びつくと、影のように舞い上がった。そして……

 この「そして……」は、後略ではありません。実際に「茶碗の中」の話本編はこの「そして……」(英語原文でも「and…」となっています)で終わります。後には小泉八雲自身によって、

 古い物語はここで途切れている。話の続きは誰かの頭にあったはずだが、それは百年以上も前に塵と化している。(牧野陽子訳)

 と説明が加えられています。

「茶碗の中」の成立

 小泉八雲の作品は、エッセイや紀行文、小説風の物語、翻訳など多岐に渡りますが、最もよく知られているのは『怪談』やこの『骨董』に代表されるような、日本の怪談話を英訳して紹介したものとなります。
 人から聞いて教えられたものも多いですが、日本の説話文学や随筆集より採集したものもまた多数にのぼります。
 この「茶碗の中」も、後者の、出典の存在する物語で、小泉八雲は『新著聞集』第五第十奇怪篇「茶店の水碗若年の面を現す」を英語に翻案しています。
『新著聞集』は寛延二年(1749年)に刊行された奇談説話集で、八雲の蔵書のなかにも確認されています。

小泉八雲による翻案

 上でも書きましたが、小泉八雲はもとの『新著聞集』収録の話を英訳するにあたり、翻案を行っています。つまり原話と英文の間には多くの異同が存在します。
 その大部分は、日本事情を知らない英語文化圏の読者への便宜をはかるための説明であったり、説話にありがちな描写やセリフの少なさを小説的に補うような変更であったりなのですが、内容にかかわる書き換えも行われています。
「茶碗の中」を輪読するにあたって、参加者に提示されていたのは結末部の変更でした。

『新著聞集』の原話における結末部は次のようなものです。

関内心得たりとて脇指をぬききりかゝれば逃て件の境めまで行隣の壁に飛あがりて失侍りし後又来らず。

 実は原話では「二度と来なかった」と結末が語られているのです。
 確かに式部平内やその家来の侍の正体や、どうして消え失せたかの謎は残りますが、ぶつ切りの物語になっているとは必ずしも読み取れないのです。

疑問点

 輪読での関心は、主にこうした読み違えが起こった理由、日本の説話文学における謎の放置などに集中する形となりました。
 ただ、私はやや異なる疑問を抱きました。
 その疑問のきっかけとなったのは、ひとつの論文でした。

 今回、私が参照したテキストは平川祐弘・編『怪談・奇談』(講談社学術文庫)に収録のものなのですが、そこで「茶碗の中」を翻訳している牧野陽子が、1988年の『成城大学経済研究』にて「ラフカディオ・ハーン『茶碗の中』について」という論文を発表しています。

http://id.nii.ac.jp/1109/00001537/

 この中で、牧野は次のような重要な指摘を行っています。

 だが、ハーンはただ原話を敷衍して劇化しただけではなく、重要な文章をそっくり削除している所が二箇所ある。松岡平蔵以下が関内を訪ねてきて恨みごとを言う場面の、「思ひよりてまゐりしものを、いたはるまでこそなくとも、手を負はせるはいかがぞや」という台詞、そして最後の「後又も来らず」という締めくくりの一文である。

 後半につきましては先ほど説明した通りですので省きまして問題は前者です。

 松岡平蔵というのは、二日目の夜に関内を訪ねてきた式部平内の家来の一人です。その人物が『新著聞集』では、
「思い詰めて訪ねてきた者を、ねんごろに扱えとまではいわないが、けれども手傷を負わせるというのはいかがなものか」
 と難じているのです。

 つまり、原話の方では、関内に思いを寄せていた美青年式部平内がその慕うあまりに人目を忍んで屋敷内に侵入して迫ったところがかえって手痛い制裁を受けたと、男同士の痴情のもつれが、におわせるどころか、かなり露骨に書かれているのです。
 この部分がありますと、確かに、怪異譚は怪異譚ではありますが、与える印象がかなり変わってきます。
 ひとまずは、式部平内が現れた部分だけは明確になる。
 この説話の主題とまではいわずとも、かなり大きな部分を占めているは事実です。

 すると二つの疑問が浮かんできます。

「どうして小泉八雲はこの男色的な部分を省略したのか?」
「そうして話全体のイメージを変えてまで、この物語で表現したかったものはなんなのか?」

何故削ったか?

思ひよりてまゐりしものを、いたはるまでこそなくとも、手を負はせるはいかがぞや。

 この省略の理由を考える前に、まず先に、これを省略したのが小泉八雲の意思によるものかどうかを考察してみないといけません。

 小泉八雲の日本語は、日常会話はある程度こなしたようですが、古文をすらすらと読むところにまでは至っていなかったようです。ですので、翻案のためにもとの説話を知るためには、人から聞き伝えてもらう必要がありました。
 特に、その点で大きな役割を果たした夫人セツが、以下のような言葉を残しています。

 私が昔話をヘルンにいたします時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません。ただ、あなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません」と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。(小泉節子「思い出の記」。文中ヘルンはハーンのこと)

 このように、原話と八雲の文章の間に、さらに発話者が媒介として組み込まれるため、その第三者が前もって削除した可能性はなかったのでしょうか。

 これは難しい問題ですが、私はやはり小泉八雲自身の意思が働いていると考えたいです。
 何故なら、「茶碗の中」の英語の原語テキスト内で、初めて青年の顔を認めた直後の文章が以下のように書かれているからです。

The face in the tea appeared, from the coiffure, to be the face of a young samurai: it was strangely distinct, and very handsome,--delicate as the face of a girl.

「まるで少女の顔みたいに繊細な」という比喩がまず目につきます。ハンサムと言ってもおりますが、それは女性的な印象を蓄えた美しさだったわけです。
 それともう一点。「若い侍」とみなした原因である「the coiffure」、これは基本的に「髪型」を意味しますが、もとはフランス語で「女性の髪型」からきています。
 そして、このcoiffureは、決して小泉八雲が頻繁に用いる語彙ではなく、『骨董』や『怪談』での使用例はなく、わずかに『心』というエッセイ集に収録された「ハル」のなかで、主人公となる女性の描写で見られる程度です。

 この式部平内の女性的描写は原話には見られないもので、八雲がわざわざ追加したものです。その意図は推測に難くないと考えられます。
 つまり、小泉八雲自身も『新著聞集』の「茶店の水碗若年の面を現す」における男色的傾向を十分に認識していた。していたうえで、式部からの恋慕を直接的に感じさせる記述を敢えて英文にはしなかったのでしょう。

 だとしたら、何故、小泉八雲はこのような、行為に及ぶでもないわずかなセリフを削らなくてはならなかったのでしょうか。

 本人の趣味に合わなかった。
 その可能性も捨てきれませんが、それ以上に、当時の英文学を取り巻く環境が関係していたと思えます。

 特に、1885年、イギリスでの刑法改正により、同性愛が犯罪化されたことは無視できないでしょう。
 そして、その改正刑法によってオスカー・ワイルドが投獄されたのが1895年です。
『ドリアン・グレイの肖像』や詩劇『サロメ』で19世紀英文学の代表格ともいえるワイルドは、これがもとで破産を宣告され、釈放後も世界を流浪することを余儀なくされ、1900年にパリで病没することとなります。

 小泉八雲と年齢もほど近く、アイルランドで少年時代を送ったという経歴も等しくするオスカー・ワイルドの被った悲劇は、現在進行形で起こっている現実問題であり、決して看過できるものではなかったと考えられます。
 直接刑罰を受けることはなかったとしても、ホモセクシュアル傾向の強い作品が受け容れられるかの判断は避けられないものだったでしょう。
 だから、八雲としては、英語で発表する以上は、その部分を残しておくわけにはいかなかった。

 しかし、だとしたら、そのホモセクシュアル的な、わかりやすい部分を抹消して、残った不可解な物語を発表したいと思う意図はなんだったのでしょうか。

何を描いたか?

 牧野論文が指摘する、小泉八雲による原典からの削除部分は二ヵ所で、それを施すことによって、
「主人公に思いを寄せた男性(と思われるなにものか)が迫ってきたものの、無下に追い払われて、報復すると誓ったものの現れなかった話」
 という物語骨子が、
「なにものとも知れない男性とその家来が、次々と主人公の前に現れては掻き消えて、そして……」
 に変更されています。

 これでは作品の主題がまったくぼやかされ、なにを伝えたいのかはっきりしません。
 けれども、視点を変えますと、その「はっきりしない」ことこそが八雲の着目した個所だったのではないでしょうか。

 この「茶碗」には短い作品にもかかわらず、本編をはさんだ前後で、小泉八雲自身の解説というべきか、まえがき・あとがきのような文章が添えられています。
 その冒頭では次のように書かれています。

 何処か古い塔の薄暗い螺旋階段を登ってみると、何もない突き当たりの暗闇のただなかに、蜘蛛の巣がかかっているだけだったということはないだろうか。あるいは、海岸の切りたった断崖ぞいの道を辿って行き、岩角を曲がった途端、何もない絶壁の縁に立っていたようなことはあるだろうか。そういった経験のもつ感情的価値がいかに大きいかは――文学的観点からいえば――その時に味わった感覚の強烈さと、その感覚が残す記憶の鮮やかさが、何より雄弁に物語るものである。
 さて日本の古い物語の中には、不思議にも、ほとんど同じような感情的効果をもたらす作品の断片がいくつか残されている。(牧野陽子訳)

 わざわざこうした言葉を残すということは、文学的観点からいいますと、欧米の研究のうちでも、当時まだこの強烈で鮮やかなはずの感覚を表現するための、明瞭な言葉が与えられていなかったと推測されます。

 ところが、案外にも、現代の私たちは、こうした唐突、もしくは脈絡のかたづかない感覚を味わった際に、それを表す言葉を持っているのです。

「不気味」もしくは「不条理」と。

 この「不気味」も「不条理」も、単語としては古いものではありますが、文学的な対象として認識されてからさほど時間は経っていません。

「不気味」については、ジークムント・フロイトによって1919年に書かれた論考「不気味なもの」によって、その端緒がつけられました。
 E・Th・A・ホフマンの「砂男」(1815)を取り上げて、その作品中にただよう雰囲気を不気味として、人間がどのような時に不気味さを感じるのかについて考察した一編になります。

 また、「不条理」は19世紀なかばにキルケゴールによって示されたことはありましたが、意識的に作品に組み込まれるにはアルベール・カミュの「異邦人」や「シシュポスの神話」、またはカフカを待たねばなりませんでした。

 自らの没後になって、ようやく概念として定義づけられる感覚を、日本の説話のうちに見出したのは、もちろん小泉八雲の鋭敏な感覚が大いに働いているのももちろんでしょうが、同時に時代に根差した要請があったともいえます。

 19世紀初頭のメアリー・シェリーによる『フランケンシュタイン』の成功以降、小説ジャンルとしてのホラーは大きな位置を占めるようになっていきました。そこで読者は恐怖を文学的主題として楽しむことを知り、その結果として、恐怖にも多くの種類があることを自覚していきました。

 エドガー・アラン・ポーのゴシックホラー的長編詩「大鴉」をもとにした「レイブン」というニックネームをつけられていた小泉八雲にとっても、同時代の恐怖受容は認識を共有するものでありました。
 そうした状況では「茶碗の中」に見える、言い表し得ない怖さはなんとしても紹介しなければならないもの、原話に見られたホモセクシュアル的な個所を削除しても、いえ、やがて不気味や不条理として語られていくだろう部分を強調するためにも、むしろ積極的に削ってさえも表現したいものだったのではないでしょうか。
 そんな「茶碗の中」は、含まれた恐怖を通じて、小泉八雲ばかりでなく、近代化の波にもまれていた日本をも、20世紀文学の潮流に導く対象を内包しているように感じられます。

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