宇都宮線の電車の中で

 あの日の日差しのように消えていく時間に、子供の頃は気づかなかった。教室の壁に囚われたような退屈な授業、果てしなく続く夏休みの思い出が、今では遥か彼方の記憶に埋もれている。

 私は今年で44歳になる。

 第二次ベビーブームの終わりに生まれ、就職氷河期の後半に大学を卒業した。子供の頃、目を輝かせて見入っていたブラウン管テレビの向こうには、バブル景気が全盛で、社会は華やかな輝きを放っていた。大人になるということは、未来がいつも明るく、華やかなものであると信じていた。

 しかし、人生はそう単純にはいかない。誰のせいでもない現実を受け入れ、自分の努力不足を認めれば、苦しみから解放されることもある。酒に逃げ、若い女性をからかい、愚痴をこぼせば、心の悩みはやがて風化していく。私もまた、周りの人々と大差なく、所詮は凡庸な存在に過ぎないと気づく。

「上には上がいて、下には下がいる。」

 金融機関で働いて以来、世の中には驚くほどの富裕層が存在し、彼らが巻き起こす物語のような世界情勢は、静寂かつ確実に進行している。理不尽や不平等は、巧妙に隠され、説得力のある言葉で包み込まれ、多くの人々に伝わっている。大抵の人は疑問を持たず、ただ横を通り過ぎる。
 それは季節のまるで変わり目のように、夏が秋へと移り変わり、冬になる。人々はそれを自然なことだと受け入れ、遠く空を眺める。

だから、
「あなたと私は大した違いもなく、遠目で見れば同じような存在にすぎない。違いは些細なもんだろう。」

それならば、みんなで楽しくフォークダンスでも踊りながら過ごした方が、少しはマシなのかもしれない。いや、多くの人にとって、そちらの方が確実にマシなはずだ。

 私には、たいまつ片手に反旗を翻す革命家のような行動力は残念ながら持ち合わせていないけれど、せめて今日も宇都宮線の車窓から流れる街並みを眺めながら、この世界の不条理や格差について考え、自分にできることを探すことに励む。そんな小さな努力が、私の人生を豊かにする一歩へと繋がるのかもしれない。

 手が届く範囲の幸せの数を積み上げることに、喜びを感じていく。いつか訪れる「最後の日」まで、どんな些細な喜びも大切に、一歩ずつ前に進んでいけば良いのだろう。

そして、遠く空を眺める視線の先には、まだ見ぬ未来が待ち受けている。

もはや期待や杞憂も要らない。

とにかく笑いあえればそれでいい。

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