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わたしの記憶

ガタンゴトン。

聞き慣れた電車の音が足元から響く。
電車では単語帳とにらめっこする日常を過ごした私にとって、その日は相手がいない不戦勝のような日だった。

窓の外では、このあたりでは珍しい河津桜がすっかり緑色に輝いていた。
私はこの桜がピンク色に染まる様子を結局見た記憶がない。
私の学校生活はそれなりによいものだと自負しているが、どうやら通学生活はそうでもなかったらしい。

とりとめもなく考えていると、向かいの学生と目が合ってしまった。
なんということはない、よくある気まずい瞬間が訪れた。
これまでも単語帳や携帯から顔を上げると目の前の人と目が合うことなどいくらでもあった。
結局すぐに私が目をそらすのが常で、その時も情けなく下を向こうとした。

しかし、下ではなく目は奥の車窓へと向かった。
心の奥底が叫んでいた。
「目を合わせろ」と。「この風景から目を逸らしてはいけない」と。
車窓を睨みつけた。
ちょこちょこと走り回っている色とりどりのランドセルが流れていく。
かつては私がそこにいた、私の過去を俯瞰したかのような風景。
目に焼き付けたくなった。
別にこれからも見れる景色だろうと心のどこかで思っていた。
でもなんとなく、本当になんとなくこの日常を目に焼き付ける必要を感じた。

車窓はすぐに終わり、駅に着いた。
まだ見たかった。
でもある程度満足した感覚、腹八分目だった。
名残惜しさを感じながらも、いつもの通学路へと足を踏み出した。

そのあとすぐであった。
自信のあった第一志望の地元の大学への不合格、そして試験で初めて地面を踏んだ地、遠くの大学への合格を知ったのは。

その後私は一度もあの緑がかった桜を見ていない。


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