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本阿弥光悦の大宇宙 ~見えないものを見ようとして~

覗き込む単眼鏡を持っていない村崎柘榴です。今回は、東京国立博物館で現在好評開催中の「本阿弥光悦の大宇宙」を観覧した感想を記す。会期等の詳細については下記のリンク先を参照のこと。

同展は「本阿弥光悦」という総合芸術家(というレッテルを貼るのは不適当かもしれないが)を、所縁の品々(刀剣、扁額、経典、謡本、漆器、書、陶器など)を通して観せることをテーマにしている。錚々たる展示品はどれもが恒星のように輝いており、それはまるで本阿弥光悦という1つの銀河系を思わせるものだった。

会場に入ると初手から《舟橋蒔絵硯箱》。二の太刀いらずと言わんばかりの洗礼である。迂闊にこれをやると残りの展示品の印象が薄くなる危険が伴う諸刃の剣だが、それでも仕掛けてくる辺り大胆不敵なキュレーションと言うべきか、二撃目以降も充実している光悦だからこそと言うべきか。恐らく両方だろう。


本阿弥光悦《舟橋蒔絵硯箱》
(展覧会図録より引用)


それにつけても《舟橋蒔絵硯箱》である。表面の大半が金で覆われていながらも軽薄な嫌らしさを微塵も感じさせず、されど黙することなくしっかりと自己主張してくるのだ。漆の有機的で嫋やかな黒と、鉛の力強く重厚な黒の違いだろうか。それなのに丸みを帯びた造形と優美な筆文字の金貝のお陰か、どこか柔らかさも兼ね備えている。そんな相反する要素を矛盾も破綻もなく両立させる光悦のセンスには驚かされるばかりである。お陰で自分の中の美の基準を磨くことができた。その1点だけでも遠路北陸から足を運んだ甲斐があったというものだ。

しかし、私にとってこの展覧会の目的は本阿弥光悦という人であって《舟橋蒔絵硯箱》ではない。それは丁度、星そのものではなく星と星の相互作用から宇宙の理を導こうとする試みに似ているかもしれない。

見る目を鍛えるには、本物を見続けるしかない。美術館に行くとキャプションと展示品を照合してばかりの人や写真撮影に血道を上げる人、国宝や重文のマークを見つけて騒ぐ人などを沢山見かける。それではダメだとまでは言わないが、それだけでは知識は増えたとしても感性は育たない。モノを見ずに情報を見ているからである。

その点、刀剣鑑定や研磨、拭いを代々の生業とする本阿弥家は審美眼を養うのに最高の環境だったことだろう。また本阿弥家は刀の鞘の制作も請け負っており、光悦蒔絵の成立に影響を与えたことが示唆されている。また、家業や法華信仰を通して培ったコネクションもまた光悦の創作活動に少なからぬ影響を与えたとのことである。

しかし、それならば本阿弥家の皆が優れた総合芸術家になり得たはずだ。それなのに光悦の作品が光悦にしか生み出せなかったのは、そこに光悦という人間だけが持ち得た「個性」の存在が不可欠だったからだろう。

光悦は「異風者」「一生涯へつらい候事至てきらひの人」だったと伝わる。家業柄権力者との付き合いもあれば、時にはおべっかの1つも使わねばならなかっただろうに、こう書かれるということは余程の硬骨漢だったのだろう。

きっと光悦という人は、過去の模倣や踏襲を良しとせず「どうしてなのか」「自分ならこうする」という風に、批判的思考のできる人だったのではないかと私は想像する。そういう批判精神を駆動力として、それまでに見聞き体験してきた豊富なインプット同士を結合させ、自分なりの回答としてアウトプットする。それが本阿弥光悦の芸術の特徴なのだろう。インプットの量と質は光悦以外の本阿弥家でも同等のものを望めたとしても、異分野のインプットを結び付けるに至る精神の作用と結び付け方は光悦独自のものであり、だからこそアウトプットは他の誰にも模倣し得ぬものになったのではなかろうか。

会場の最後は「土の刀剣」と題して茶碗特集だった。光悦の他には長次郎や道入の作品もあり、光悦の特徴を相対化できたのは面白かった。


本阿弥光悦 赤楽茶碗 銘《乙御前》
(展覧会図録より引用)


思うに、光悦と樂家の一番の違いは口縁の鋭さである。長次郎もノンコウも口縁は丸く綺麗に整えているのに対し、光悦はそれをせずに鋭さが残ったままで、所々にヒビも入っている。光悦なぜは口縁を丸めなかったのか。口縁の形状で茶の味の感じ方が変わるという説があるけれど、恐らくそうではなくて、純粋に光悦の感性によるものだろう。常慶も「口縁を整えないと焼く時にそこから割れますよ」などと忠告したかもしれない。しかし《雪峰》(今回は出展されていないけど)のように派手に割れてしまいながら金繕いを施した作品があることを思えば、割れるリスクより作りたいものを作る方が光悦にとっては重要だったのだろう。そこにはある種の我の強さ、異風者の香りが感じられるのである。

異風者とは「尖った人」と言い換えれるかもしれない。《乙御前》の口縁を眺めていると、そんな考えが浮かんできた。自己を確立し、揺るがない価値観を持ち、周囲の言う事に流されない。私もそういう風に生きたいものでたる。たとえ光悦のような傑作を生み出す事はできずとも、光悦のようにへつらう事なく尖って生きることができたなら……

気がつけば薄暗い展示室は終わり、微かな寂しさと共に朝が来た。本阿弥光悦という銀河を構成する星々は遥かな時を超えて私達に光を届けてくれたが、そこに同じ輝きを持つ星は2つと存在しない。我々にしても同じだ。同じ人間は2人といない。最近は個性的と呼ばれたくない人が増えているという話を聞いたことがあるが、個性あればこそ世の中は面白い、と思う私からすると不思議な感じものである。しかしそれもまた個性、なのだろうか。

さておき、個性的な人もそうでない人も楽しめるのが「本阿弥光悦の大宇宙」。貴方もかの星々を眺め、個性的に生きるということに思いを巡らせてみては如何だろうか。

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