人のために生きるということ
本当の意味での「思いやり」って、
自分のことなんてどうでもよくて、
自分の欲を全部捨ててしまうことだ。
こんな言葉をかけられたことがある。
結論、伝え方がうまくいっていなかったようで
聞いた瞬間の印象はひらりと覆されたのだけれど。
相手が本当に言いたかったことは、
極端に自分の趣味や好み、身なりや時間を
差し出さないと、それは本当の意味では
人のことを思いやれていないということではない。
そうではなく、単純に自分はそれほど
私のことを大切に思ってくれているということ、
本人的には自分自身には昔からあまり興味がなく、
ちょっと偏っているところがあるかもしれないという
補足もあった。
最初の言葉から感じたインパクトでいうならば、
精神的な自由がなくてはならない私にとって
正直馴染めそうになかった。
だから、自分のペースや距離感を保つために
自分を大切にしてしまっている私は
優しさが欠けてしまっているのかと思い、
これまでどうしてこんな風に生きてきてしまったのだろうと
暗い穴に落ちてしまったような感覚がした。
ただ、だんだん相手の背景や考え方に
もっと触れる機会が増えてくるにつれ、
”伝えたい”熱量が足されたことで口調に拍車がかかり、
別に私を否定したいとかではなく、
表現がストレートになってしまっているんだと。
そう感じるようになったのだ。
今日出会った人は1年後、もっと理解しあえる関係性が築けている。
この当たり前の月日のおかげで、今想像できないことも
透き通って見えてくる。
以前はそのまま、言われたことをそのままスポンジのように
吸収してしまう体質だから、もっと敏感だったように思う。
でも、相手を知っていくうちに、
この受け取り方を型にしてコミュニケーションをとると、
相手がいくら生き方の軌道修正をしても
うまく交わることができない。
相手の変化に気付くこと、相手の癖を知ること、そして許すこと。
これが前提でようやく自分の行動を選択できるのだ。
本当の意味での人のために生きるということは、
今の私の解釈でいうならば
一旦全部受け止めて、聞くこと。
そして、引っかかる言葉は相手によって違うから
ていねいに言葉を選ぶこと。
この2つだと思っている。
これから先、またこの解釈がどう変わっていくのかを
客観視できるのが”相手にかける言葉”なんだと思う。
私は話すよりも書く方が思いをつたえやすいから、
普段の優しい会話のおかげで
周りと繋がりつづけられているのだろう。
こうやっていつも、「いつも優しくしてくれてありがとう」と
思うのだ。