「批判という風」について
※ この記事は、僕個人の批判に対する付き合い方について書いたものです。他の人にこの考え方に同意してほしいという意図はありません。
有名人への批判について考えた
有名人ではないので本当の恐ろしさは分からないけれど、わからないなりに考えた。
批判は風
批判という風を入れよ - 『超訳ニーチェの言葉』095より
批判という名の風通しは必要で、良い風通しは良い人を育てる。
でもその量はコントロールされるべきだと思う、たとえ正しい批判であっても。
受け手のキャパシティを超えた批判は風を超えて、嵐となる。批判の嵐は通り過ぎるものすべてを傷つけていく。
有名人のおかれる状況は特殊で、何万という人の声が届く。一つ一つの声は小さくても、本人には全世界から避難されていると感じることもあるだろう。
有名人として生きる以上、批判にさらされることは避けられない(誹謗中傷はもちろん根絶すべきものとして)。正しい批判が存在するのならなおさらだ。
この批判の嵐への対処法としては、フィルターで批判の量を減らすか、批判されても大丈夫とすること。
ここで言いたいのは、たとえ正当な批判であっても量が増えると危険ということ。(けんすうさんも同じことを記事にしていた)
錯覚させるSNS
メッセージか批判だけを見ないでおくことは難しい。SNSに届くコメントは批判だけでなく、称賛やお礼のメッセージもある。内容を読まずに批判を見ないことはできない。批判を見たくないのなら、メッセージを全く見ない、くらいの思い切りが求められる。
それならば批判との付き合い方を変えるのはどうだろう。
・発言をポジティブに捉えて学びに変える
・「全世界が自分を避難している」は錯覚だと気づく
とくに錯覚を自覚することは大切。目の前にうつる何千件もの批判を真に受けてたら、呑み込まれてしまう。
でも大丈夫。批判は目の前で起きているのではなく、遠くの知らない誰かがしているに過ぎない。目の前で怒鳴って来る人はいないし、道端を歩いていて卵を投げつけられることもない(投げられたら警察をよぼう)。
ネットの風はバーチャルだ。
便利だからといって義務にはならない
もし僕の行動を誰かがモニタリングしていて、常に評価されているとしたらどうなるだろう。
信号は守らない、だらけた生活、そして妄言。
もし1億人が見ていたら少なくとも9000万人くらいは低評価をつけるのではないか。
でも実際に僕の耳に直接届く声は多くて5だ。それ以外の約9000万の批判は僕にとっては文字通りバーチャルなものだ。
僕がひどい行動をしたとき、自分の中にいるバーチャルな9000万人を全員敵にすることもできるし、その逆もできる。
全員が敵になれば僕は傷つくだろうし、全員が味方になれば甘やかしになるだろう。9000万の批判者から、どの意見を聞き入れるかを取捨選択し、自分のなかにバランスを見つける。それだけのこと。
批判の多くは根拠のないものかもしれない。そんな声に向き合う必要はない。逆に中には正当な批判もあって、そういう声には真摯に耳を傾けなければいけない。それでもdistinctな批判を一つずつで十分だ。数が少なくても正面から向かうことができれば、成長できると思う。
つながりやすくなったからといって繋がる必要はない。
自分の付き合いたい人と付き合う、自分の聞きたい声を聞く。
SNSとはそんなゆるいつながりでいいと思う。
※追記: バイリンガルニュースを聞いていたら、Mamiが「加害者じゃなくて被害者が動かなければいけない状況になってる」と。これは確かにおかしいと思う。
ありがとうございます。