マガジンのカバー画像

Think difficult

80
思考を刺激し、ヒントを与えてくれる色々。難しく考えた思考の断片や、気になった記事のスクラップをまとめています。
運営しているクリエイター

#写真

表紙は破って捨てたよ。

「消費する遊び」と、「創造する遊び」があって、このどちらが好きかによって生活のスタイルは決まっていく。 たとえば子どもにしても、絵を描くことが好きな子と、塗り絵が好きな子がいるよね。どちらが好きでもいいし優劣をつけるつもりはないんだけど、そこに「断絶」があるのだけは確かだと思っている。 白い紙を渡されるとすぐに絵を描き始める子は、塗り絵のように「誰かが用意してくれた下絵」が印刷された紙を面白いとは思わないだろう。反対に塗り絵が好きな子は、真っ白い紙を見ると手がかりがないか

バカと利口の両方が満足できる本。

30年も広告を仕事にしてきたのに、もし自分が作って世に出したプロダクトがまるで売れなかったら、それはクライアントに対しての冒涜になるだろう。過去に「こうしたら売れますよ」と、企業に対して偉そうに提案してきたことの説得力がゼロになってしまうからだ。 というわけで、自分が出した本が、まあまあ好調な予約状況であるらしいことを知って、ほっと胸をなで下ろしている。 『ロバート・ツルッパゲとの対話』の後書きにも書いたが、「売れる」というのは商業活動の金銭的結果だけを指さない。特に本に

所有と集合知。

先日あるミュージシャンと、「ニューヨーク」というコンビのネタについて話した。彼らは、出す曲がことごとくヒットしているJ-POPデュオという設定で、その作曲風景をコントにしている。 俺たちのファンのあいつらは「永遠」とか「LINEが既読にならない」とかいう言葉が好きだから歌詞にたくさん入れとけ、みたいに話し合いながら最終的に曲ができあがる。ある意味、現在の音楽業界をバカにしているわけだから、そのコントを見てイヤな気持ちにならないか、とミュージシャンに聞くと、「いや、そういうミ

勉強のための視力。

先輩がゆっくり歩いていたら、後輩は後ろからぶち抜け。 と思う。 この前、写真を始めたばかりの人からポートレートをいくつか見せてもらったんだけど、すでに普通の仕事は十分できる程度の能力が感じられた。 勉強の方法に敏感な人は効率よく技術が向上するんだなと思い、根拠のない頑固さでずいぶん時間を無駄にした過去の自分を恥ずかしさとともに思い出した。 「勉強の方法」のほとんどは謙虚さと素直さでできている。残りの1/3はバファリンだ。 自分は何も知らないから全部吸収しようと思う人

ヤギさんへお手紙書いた。

ヤギワタルくんがTwitterで、「批評家の必要性」について書いていた。俺はあまり必要だと思っていないので、そうリプライした。140字では到底書けない内容なので、「noteに詳しく書いて」とお願いしておいたらアップされていた。 ヤギくんの丁寧な説明で概要はわかった。批評家によって創作の世界がひらかれたり、作家が進化する可能性があるというのは納得できるし、批評にとどまらずに創作に転じる人がいるのもわかる。よき創作者は批評家の資質を備えることがあるというのも理解できる。 俺が

橋の上から見た夕陽。

数年前、「ホタル祭り」に行ったことがある。地方の夏祭りで、特別ホタルがたくさんいる場所でもない。まあ、そういうネーミングだというだけだ。 そこで数枚の写真を撮ってSNSに載せたところ、まったく知らない人からコメントがあって、「全然ホタルが写ってねえじゃん。笑」みたいなことを言われた。その時、ああ、これだなと思った。 自分は仕事でアートディレクション、撮影、編集をしているからそれが変だとは感じないんだけど、そうでない人は、「スイーツ祭り」という記事でスイーツが写っていないの

「フィルムで写真撮ってるんです」って鼻息荒く言われることがあるんだけど、知らない人がマッチでタバコ吸おうが、ライターで吸おうが、俺にはどうでもいいです。

他人の受け売りなので無料記事。

キングコングの西野くんにはビジネスの才覚があります。先天的なモノもあるでしょうけど、かなり大事なポイントがひとつ。それは誰もが平等には得られない「環境の問題」です。 彼は若い頃からあらゆる分野のトップクラスの人と出会い、その人々から、一流のビジネス感覚を学んでいます。そこに大きな差がある。 そういった恵まれた環境を持たない多くの人は、その部分を「想像」で補っています。だから現実とのズレが大きかったり、手垢のついた理論を信奉していたり、民間療法のように非科学的なことを信じ込

サファリパーク。

今日はある仕事のミーティングのため、金沢に行ってきた。 訪れる場所は、回を重ねるごとに近く感じるようになる。おそるおそる行く道は遠く感じ、同じ道を戻る帰り道は時間が短く感じる、あの原理だ。 未知のモノは情報処理に時間がかかる。目の前に現れるすべての要素に反応するからで、すでに体験したことに対しては無視できるから、意識の労力を省ける。 金沢に行く二時間半という距離がどんどん短くなっていく。すでに何度も訪れた場所があるし、知った顔も増えてきた。これと同じ感覚が持てる土地がい

ヘタが巧くなり、ヘタになる。

絵でも写真でも何でも同じだと思うのがこれ。 最初は、箸にも棒にもかからない「ヘタ」から始まる。それが慣れてきて技術を憶えてくると「上手」になり、達人になると「ヘタ」に見えるところへ戻っていく。 これが意外と知られていない。というか素人は途中の「巧い」を目指しているから、それらしく描けたり撮れたりするところにゴールを設定している。 何もできない人が技術を憶えてくると、上達が楽しくなってくる。これはまあよろしい。でも、巧さには上限があるのだ。 多くの人はそこに近づくほど安

答えがあるモノに興味がなくなった。

たとえばテレビのクイズで問題だけ出されて、答えを言わずに番組が終わったらどうなるか。モヤモヤするはずだ。だからどんなクイズ番組も答えを言うんだけど、「答え」が与えられることに慣れすぎていて、それが提示されないと怒り出す人がいる。 娯楽というのは「答え」の象徴のような気がする。カラオケで歌う、ゲーセンやテーマパークに行く。そこには変化も破綻もなく、期待通りの娯楽の答えが用意されている。 昔、あるミュージシャンがインタビューで「無人島でシンセサイザーがなかったらどうしますか」

この春の桜の撮影を経て、自分にかけていた「呪い」が解けた話

随分noteを書けない日が続きましたが、それというのも良いことがあったからなんですね。そのことについて今日は書きます。めちゃくちゃ単純な話なんですが、写真がまた楽しくなりました。 いや、これでは語弊があります。まるで一定期間、楽しくなかったかのような印象を与えてしまう。できるだけニュアンスを正確に伝えるならば、「自分自身で無意識のうちにかけていた自己抑制が解けて、新しい気持ちでまた写真を撮れるようになった」という感じになります。今日はそういう話で、そしてこの話は写真に限った

写真と文学 第八回 「不在の中心が生み出す物語」

 本屋で『桐島、部活やめるってよ』というタイトルを見た瞬間、思わず手に取った。あまりにも斬新なタイトルの作品が、どんな文章で始まるのかを確認しないではいられなかったのだ。1ページ目を開いたとき、タイトルに引かれた自分の直感が、予想よりはるかに鋭い形で具現化しているのに驚愕した。「え、ガチで?」という冒頭の1行。震えが来たとはこのことだった。それに続く言葉のすべてが、新しい時代の声と抑揚と響きを伴って、ページを所狭しと飛び回っていた。小説の中で印象的に使われている比喩を引くなら

味音痴が集まるレストラン。

「写真の部屋」の中で写真を仕事にしたいと名乗りを上げた14人のメンバー。一度全員で実際に集まったあと、クローズドなグループページでオンライン勉強会をしているんですが、そこで気づいたことを皆さんにも共有したいと思います。 腕試し メンバーページには、毎日彼らが撮ってきた写真がアップされます。贔屓目抜きで、すでにお金をもらって普通に撮れるだろうというレベルの人がいます。プロとしてやっている人も混ざっているんですが、間違えて欲しくないのは仕事のクオリティとは「誰から頼まれるか」