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障害という名前に隠れた、多数派の傲慢な価値感覚 【発達障害と社会について】

誤解を招く表現かもしれないけれど、あえて言わせてもらうと、発達障害とは現代社会が生み出した「概念」に過ぎない、と僕は捉えています。

その理由を自分の中でうまく言語化できていなかったんですが、最近読んだ本がそのヒントを教えてくれました。
正高信生著「いじめとひきこもりの人類史」という2020年10月に出版された本です。

人類史学・社会学的観点から「逃げ場のない社会」について考えていくこの本を読んで、発達障害は現代社会が生み出した概念だ、と改めて思えたので、その話をまとめてみようという試みになります。

ざっくり言うと、歴史という観点から、発達障害について考えてみることで発達障害について別の側面が見えてくるんじゃない?という話です。
発達障害って現代になって言われるようになったことだよね、それってどういうことだろ、という話とも言えます。

辻田は大学院を経済史で修了しているので、この手の話は得意です。多分。

最初に断っておくと、僕は発達障害の専門家ではないので、あくまで素人の言っている戯言だと思っていただけると助かります。

医学的な解釈

最初に、発達障害について医学的に世間一般で言われている解釈を載せておきます。
専門的で長いので飛ばしていただいても構いません。

発達障害とは、主に乳幼児期あるいは小児期にかけてその特性が顕在化する発達の遅れまたは偏りであり、主に先天性の中枢神経系の機能障害を原因とする。障害される機能は、多くの症例で、対人認知、言語、視空間技能および/または協調運動などの高次脳機能が含まれる。
成長するにつれて、これらの症状は次第に軽快するのが通常であるが、成人にいたってもさまざまな程度の機能障害が残存することが多い。通常、遅滞や機能障害は顕在化する以前から存在するもので、完全に正常な発達期間が先行することはないと考えられる。
発達障害は、症状の特徴によりいくつかに分類され、
広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorders: PDDあるいは自閉症スペクトラム障害 Autism Spectrum Disorders: ASD)、学習障害(Learning DisordersまたはLearning Disabilities: LD)、注意欠如/多動性障害(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder: AD/HD)、
運動能力障害、コミュニケーション(会話および言語)障害、知的障害、チック障害などが含まれる。
これらの障害は通常、男児で女児に比べて多くみられる。いくつかの発達障害を合併することもあり、身体疾患や精神疾患を伴うこともある。とくに、環境とのミスマッチによって精神症状の併発や増悪を引き起こすこともある。同じ診断名でも、発達の状況や年齢、置かれた環境などによって状態像は多様で、特性に応じた個別の支援の必要性が提唱されている。
引用元:脳科学事典

長々と引用しましたが、要約すると、発達障害とは医学的に、「先天性の中枢神経系の機能障害を原因とした対人認知をはじめとする疾患である」と言えそうです。ざっくり言い換えると、対人関係とかがうまくいかないのは、神経系の違いに原因があるんだよ、ということだと認識しています。

ただ、社会学的な視点で言うと、発達障害の根源的な問題は、特性のために親密な対人関係を築くのが難しかったり、他者に迷惑を掛ける可能性が高かったりなど、社会的・経済的な不利益を受けやすいことにある、ということも抑えておきたいところです。

ゆえに、発達障害は社会での生きづらさの障害であるとも言われます。

発達障害概念の歴史

発達障害の概念が報告されるようになったのは、1884年に「ディスレクシア」(失読症)が初めと言われていて、1943年に初めて「自閉症」が報告されたようです。そしてアメリカで1963年に法律用語として「発達障害」が生まれました。

こと日本においては、発達障害の概念が注目されるようになったのは1960年代後半・1970年初めの頃で、その頃ちょうど国会で初めて「自閉症」というワードが取り上げられるなどしたようです。

ここからも分かるように、発達障害という概念は極めて最近生まれた現代的な概念であることが分かると思います。

さて、では医学的には神経系に原因があるとされる発達障害は、もっと昔には存在しなかったのでしょうか

神経系が異なるという現象ならばもっと昔から起こっていてもおかしくなさそうですよね。

狩猟採集時代まで遡って分かること

では極端に人類の歴史を遡って、狩猟採集時代に発達障害の特性が見られる人はいたのでしょうか?まだ僕たちが原始人と言われていて、マンモス狩りに出かけていたような時代です。

まさにこの問いに対して、「いじめとひきこもりの人類史」で興味深い洞察がなされていました。その箇所を引用してみます。

先史時代、われわれの祖先が狩猟採集に依存した生活をおくっていたころ、天候の変化を読んだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を製作したりするための「ナチュラリストとしての才覚」にたけていた存在と、社交にたけた存在が相補的に機能することが、人類の地球上での生活圏の拡大に多大の貢献を果たしたと考えられる。(p.90)

そう、ここでいう「ナチュラリストとしての才覚」を発揮しした対自然のスペシャリスト集団こそ、現代「自閉症」と呼ばれる人たちです。

本当は「自閉症」と呼ばれる障害は障害ではなく、人類がかつて生息環境に適応するための一つのあり方にすぎませんでした。ニューロダイバーシティ=脳多様性の結果にすぎなかったのです。これは自閉症に限らず、他の発達障害の特性にも当てはめることができると言われています。

しかし、その捉え方を変えてしまったのが、現代社会です。

そして現代社会が概念を生み出した

やがて人類は、文字を手にし、お金を生み出し、国家を作り、現代社会に行き着きます。共存してきた自然は、いつしか科学と文明の発展により支配する対象となりました。

そして現代社会は、コミュニティがいたるところに重層的に存在し、コミュニケーション無しに生きていくにはあまりにも難しい社会です。そうしないとそのコミュニティ内でうまくやっていけなかったり、お金を稼ぐことすら難しいことだってあります。

それに伴い、対自然のスペシャリストであった人たちが、コミュニケーションにたけた多数派からどう扱われるようになったか、ここまで読んだ方は察しが付いているかもしれません。

「発達障害」という概念の登場です

お世話になっている作業療法士さんの言葉を借りると、「現代社会となって家庭環境や産業形態、コミュニケーションの変化・医療技術の向上に伴い発達障害が増えた」わけですが、これは発達特性を持つ人の数が現代社会になって増えたというわけではなく、もともと特性を持っていた人たちが現代社会の性質上、認識される数が増えた、と捉えられるのではないでしょうか。

医学的に神経系が多数派の人たちと違う。

確かにこれは紛れもない事実ですが、その違いを障害だと決めつけたのは今の社会であり、多数派の人たちに他なりません。産業資本主義が根付いた現代社会が、社会の要請する「普通」の人と神経系に違いがある人を「障害」とした。

こういう理由で、「発達障害は現代社会が生んだ概念じゃないか」と僕は考えています。

多数派の傲慢な価値感覚

最後に、「いじめとひきこもりの人類史」の最終章に載っていた一文を引用しておきます。

「だか、このような「疾患」※は、新型コロナウイルスに感染して診断を受けるような疾患とは根本的に異なったものにほかならない。逃げ場のない社会に生活せざるをえないからという、ただそれだけの理由で生じた心理状態にすぎない。それを「疾患」とレッテルを貼っているのは、逃げ場を必要としない世の中の多数派の傲慢な価値感覚であるといって過言ではない。」
(p.159)
※「疾患」とは、発達障害や社交不安障害のことを指しています。

ー多数派の傲慢な価値感覚。

このフレーズを読んで、衝撃が脳に走る感覚を覚えました。

自分たちが正しいと思う価値観を「全ての人が当てはまるはずだから」と押し付けて、その価値観に沿って生きるのが難しい人たちには「その価値観は社会で必要とされていることだから」という多数派の決まり文句を振りかざし、そして「障害」と名前をつけた。

こういう構造を多数派の人たちが生んでしまっていることを、僕たちは自覚しなければならないと思います。
障害と決めつけたのは社会の多数派の人たちで、生きづらい生き方を強いているのも多数派の僕たちだ。

よくこういう話は、少数派の当事者体験のある人が言うから響くことであるのは間違い無いでしょう。

だけど、多数派の人もこのことをちゃんと自覚して、多数派の人が声を上げていかなければ、きっと社会は変わっていかない。
社会の認識は変わらない。

マジョリティの人たちが、自分たちが中心であり普通である、という幻想を捨てることが大切な一歩なはずです。

だから、この領域ではマジョリティに属されるだろう自分から、声を上げていきたいと思います。

本当の多様性が実現される社会を目指して。


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