受験勉強をしたことがない僕の懺悔みたいなもの

僕の高校生活は通信制という少し特殊な形態で過ぎ去っていった。通信制高校にも受験はあったが、テストはなく「人をいじめたことはありますか」など簡単な質問をされるだけだった。藁にもすがる思いで通い続けてた塾の先生が言ってた。「落とすためのテストじゃないから」。だから僕は受験勉強をしたことがない。

懺悔

そのことは暇な時間になると結構よく思い出す。電車移動が長い時、無心で洗濯物を折りたたんでいるとき。「受験勉強をしたことがない」それはハッとしたように脳裏に浮かんできて、僕を落ち込ませる。
社会人になった今では、受験なんて学びなおしをしようと一念発起しない限りは、一生かかわることなんてない。そう思うと、人生の年表にぽっかりと埋まらない大きな空白ができてしまった気分になる。もう2度と取り返しがつかない。
そうして、僕の中で経験したことのない「受験勉強」は、神格化され続けた。

幻想と2人の問題児


僕は素晴らしい「受験勉強」という経験をしたことがないまま死んでいく。どうしようもない現実が劣等感となって襲ってくる。受験勉強をしている期間は長く、苦しい。多くの楽しいことを我慢して偏差値を上げていくのだ。
人生における大挑戦だ。そんな幻想というか、期待みたいなものを受験に託している自分がいる。
だからだろうか。自分の中に、過去を否定したがるひねくれものと、血反吐吐く思いをすることだけが努力なのだと信じて疑わないマッチョがいる。ひねくれものは「ほら、お前は受験勉強さえしたことがない落ちこぼれだ」と僕の足を引っ張り、マッチョは僕のささやかな努力の価値を限りなく0にする。どちらの問題児も僕は飼いならせていない。

神様に聞きたいこと


不登校だったあのころ、勉強しなかったのは仕方のないことだろうか。それともただのいいわけか。正直、他人から慰めの言葉をもらっても受け入れる素直さが僕にはない。だって大体の人は一回くらいは努力しているから。そんな人たちと僕の間に、埋められない溝を感じる。
できることなら神様に聞きたい。僕の人生は、みじめでしたよね?ひねくれものはそう尋ね、僕が胸を張って生きるには、何に血反吐を吐けばいいのでしょうかと、マッチョが知りたがっている。

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