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010|終わる

ノートを買っても使い切らずに新しいものを買ってしまう癖がある。でも、年末に買ったノートはほぼ終わり、同時期に買ったボールペンのインクは切れた。それだけの言葉や感情をしたためながら、犀の角の3階で起きていたことを見つめ続けた1ヶ月半。稽古場レポートを通して役者陣の変化や成長、ひとつの作品が作られていく様子を綴ってきた。でも、実は『貴婦人と泥棒』の完成台本を読んだ時「あ、これは私の好きな物語ではない」と思った。私は「現実的じゃない」と批判されるくらいの超ハッピーエンドが好きなのだ。でもレポートを書くのに私の好みは関係なく、稽古場で生まれるものを丁寧に綴るだけだと思いながらペンを走らせていた。

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「好きではなかった」そんな胸にしまっておいた方が良いような想いをなぜ告白したかというと「好きではない」という気持ちが出発点だったからこそ気付けたことがあるからだ。それは通し稽古を見た時のこと。それまで私は稽古場で作品ではなく人を見ていた。「人を書く」というスタンスで臨んでいたのもあるし、下手に物語に触れてネタバレになるのを避けていた節もある。だから通し稽古を見て初めて紙の上の物語ではなく、人が演じる物語として『貴婦人と泥棒』に向き合うことができた。そして「人が演じるからこそ、受け取れるものがある」ということに気付いた。私は学生時代、漫画の実写映画化についての研究をしていた。漫画という媒体で完成されているはずの物語をなぜ実写映画にするのか。商業的な理由を踏まえつつも、私は2次元と3次元の間にある表現を探求した。そして研究の過程で出会った言葉がある。

人が演じることによって
その物語に感情移入できる人たちがいる

漫画という媒体で感情移入ができなくても、映画という媒体で人が演じることにより、その物語に感情移入できる人たちがいる(もちろんその逆もある)。私が稽古場で体験したことはまさにこれだった。台本で受け取れなかったものを、役者陣が演じ切ることで初めて受け取ることができた。特に終盤、ミネさんこと永峯克将さん演じる主人公・ユキの叫びには、通し稽古だけでなく4回あった公演全てで目頭を熱くした。笑い、苦しみ、時に涙を浮かべながら、この物語の中で生きる彼らに救いがありますようにと祈るほど感情移入した。もしも私が最初から『貴婦人と泥棒』という物語を好きになっていたらきっと気付けなかっただろう。「好きではない」と一歩引いたところから見つめ続け、そして役者陣が本気でその役を、登場人物たちを生きようとしたからこそ、私は気付くことができた。人が演じるからこそ、受け取れるものがある。きっとそれが演劇の面白さなのかもしれない。

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(撮影:伊東昌恒さん)

公演から1週間が経ち、私は『貴婦人と泥棒』を観に来てくれた友人と出かけた。お茶をしながら彼女は「この1週間、気が付くと『貴婦人と泥棒』について考える時間が何度もあった」と溢れんばかりの感想を語ってくれた。鑑賞から時間が経っても想ってもらえる作品は幸せだ。稽古場で過ごした時間も含め、私は『貴婦人と泥棒』という特別な物語を旅していた。その旅も筆を置くことで終わる。寂しく思うが旅の終わりは、新たな旅の始まり。『貴婦人と泥棒』に携わった人々はもう新しい旅に出た。私もまた別の旅先からレポートという名の手紙を綴れることを願う。ありがとう、またどこかでお会いしましょう。

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(撮影:伊東昌恒さん)

【お知らせ】
『貴婦人と泥棒』が冊子になります!
・やぎちゃんの稽古場レポート総集編
・役者、スタッフインタビュー
・稽古、本番のオフショット
などを収録予定。詳細は追ってお知らせいたします。

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過去の稽古場レポートはこちらから

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