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雨の日の羨望_桐原しぐれ_1

 母が死んだのは、私が高校を卒業して本格的に演奏活動を始めてから、まだ一年も経っていない冬のことだった。
 関西での公演を終えて、携帯を見ると知らない番号から九件の着信履歴があった。何事かと思って折り返すと、普段全く関わりの無い叔母の携帯番号だったようで、母が亡くなったという知らせだった。
 母は昼間体調不良を訴えてタクシーで病院に向かい、そのままあっけなく逝ってしまったという。叔母によると、急性心不全だということだった。信じられないくらい突然のことだった。その日の朝に電話で話していたときは全然そんな様子はなかったのに。

 叔母も最期を看取ることはできなかったらしい。その日は、もう遅いから一度帰ってゆっくり休んでから明日こちらへ来なさい、と言われたが、ゆっくり休めるはずもなかった。私はホテルに帰るとコートも脱がず、荷物も降ろさないままベッドの上に腰かけて放心していた。現実を理解することを、しばらくの間脳が拒んでいた。

 そのまま夜が更けていって、時間が経つほどに私の心臓はどんどん強さを増して波打っていった。
 意味が分からない。どうして?なんで?
 私はパニックになっていた。どうしたらいいかわからなかった。急に母が死んだと言われて実感できるはずもなく、夜中に一人でパニックになっても、私には頼れる人なんかいなかった。――母以外には。

 いつものように母に電話で話を聞いてほしかった。電話したら何事もなかったかのように出てくれるかもしれない。さっきのは間違い電話だったのかもしれない。叔母さんじゃなかったかもしれない。もうずいぶん長い間、私は叔母の声なんか聞いていない。人違いだったのかもしれない。私は必死で自分を納得させようと、「そうじゃない」理由をいくつも並べて落ち着こうとしていた。
 でも、電話口の女は私のことを「しぐれちゃん」と呼んだ。母の番号に電話なんかしたら、信じられない事実を突きつけられることになるかもしれない。怖くて苦しくてどうしようもなかった。そのまま地獄のような絶望感の中、もがきながら朝を迎えた。

#小説 #雨の日の羨望 #死

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