懐古虫
「あの頃はよかった」
なんて言いたくはないし、言いたくなかった。
でも、あの頃のインターネットはよかった、本当によかった。
「インターネット」自体は変わっていない。
変わったのは使う側、自分、その他、諸々、それはだけは確実だ。
パソコン=インターネットが使える、ではなかった時代。
ネットを使える環境はある程度の条件を満たした人にしか無かった時代。
無秩序で混沌とした、なにもかもが嘘であろうと本当であろうとも流れ、ただ「世界」が横たわっているだけだった。
あの頃の世界はとてつもなく平等だった。
一時的な個を持つが、個に執着する方が異常とされる風があった。
個を持ちたい者は同士で集まり個を持っており、それを意識しても意識することは必要とされず、世界の一部として個を持たないことは普通であった。
匿名という概念とは少し違う。
純粋に、わたしは世界だったし、世界はわたしだった。
わたしはみんなだったし、みんなはわたしだった。
だから当然同じであり、当然違い、当然自由。
場は無法地帯ではあるがローカルルールは存在し半年ROMれば大体わかる。(場によってROMっておいた方が好ましい期間が異なるのもまたローカルルールに含まれる)
00年代、いやおそらく90年代だと思う、わたしが指す「あの頃」は。
わたしはフロッピーを使った記憶が無いのでそこまでパソコン利用歴が長いわけではない。
しかしネットには先人がいることが当たり前で、誰もが常に新入りであり誰もが古参でもあった。
ネットには何も必要がない。
一時的な自我が存在していれば、むしろ他は何も必要とせず、人種・性別・年齢、何も必要ない。
個を持続せずとも怖くはなかった。
数多の個の集合体である世界において、個は意味を成さず、個とは世界のひとつでしかない。
だから何もかもが平等で個が存在する意味のない、世界。
輪郭が無い。
「有」の中に在る「無」
水に似ていると、泳ぐことを長く続けた身として例えられる。
わたしは幼い頃から水泳を習っていた、自分の意志とは関係なく、プールの水に触れていた。
だから水を知らない人の気持ちは想像できても、体感することはできない。
水があるから泳ぐのか、泳ぐために水があるのか、そんなことを考える瞬間も無く、泳いで水に触れていた。
当然、親が習い事として水泳をさせたからだ。
泳ぎたいという意思表示を自らしたという理由ではない。
己の意志とは関係なく泳ぐ。水があるから泳ぐ。水がなければ泳がない。別にそれ以上でも以下でもなく、息をするように水の中を泳ぐ。
泳ぐ時、水はわたしに触れている。
ただ触れているだけ。
「わたしと水」の関係は「泳ぐ」に対しては関係がなく、何も必要ないし、存在しない。わたしは水に触れているだけで泳いでいてもいなくても、泳ぐにとってはどちらでもいいからだ。(ここでの水は泳ぐためのものとして扱う)
だが「わたしと泳ぐ」の関係には「水」が関係を持つ場合が存在する。今こうして語っているのが証拠である。(ここでの泳ぐはわたしの行為として扱う)
その場合、水が泳ぐことになんらかの意識をすることは、まあ、存在しないと思う、たぶん。
「水と泳ぐ」の関係に「わたし」を存在できるだろうか(さらに言うなれば必要とするだろうか)。
不可能であろう。
存在できる条件として、そこに「わたし」が必要になる。
逆に「わたし」が存在しない限り、「水と泳ぐ」は存在しない(必要としない)からだ。
関係性を存在させるのは「わたし」となる。
こうして分解して考えると、無意識に泳いでいるわたしは水を無意識の中で認識している。
簡潔に言うと「わたしは呼吸をしていると思ったとき呼吸をしている」、「わたしが生きていると思ったときは生きている」だ。
死んでいたら生きているってわかんないし、生きていても生死の概念が無いと死んでいるのか生きているのかわかんない。
とんでもなく遠回りになってしまった。
わたしは泳いでいるとき水のことを考えなくても泳げる。
わたしは生きているとき死のことを考えてなくても生きれる。
生死観が無ければ、死ぬのは怖いなんて思わない。生きているのもなんとも思わない。
「有意識」の中に在る「無意識」
うわあすごく遠回りになった。
あの頃、インターネットでは個はそこまで重要じゃなかった。
それが当たり前だった。
常識だった。
みんなそうだと思ってた。
でも実際はどうだったか証明しようがない。
だって「インターネット」も「個」も「わたし」も異なるから。
いまさら、あの頃のインターネットでの個は~とか語るのはあんまり意味ない。
時間の無駄。
変わっちゃったのはわたし。
それを受け入れずに、全部インターネットや時代のせいにするのはお門違い、ってことだ。
年寄りが昔は良かったのにって言ってるのと同じ。
これが懐古厨か……。
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