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箱の中の言葉

「リンちゃん、早くー」
「待ってよ」
 至上の楽園という言葉に弱い君の為、あの日の帰り道──今にもシャッターを下ろそうとする小さな旅行代理店に慌てて飛び込んだ僕は、君を酔わせるのに充分な謳い文句と暖色の屋根に、そして何処までも美しいターコイズの海に彩られたパンフレットを急ぎ見た。
 それは綺麗だった。紛れもなく、今まで見てきた何よりも。それなのにいま目の前に広がる光景はそれよりずっと綺麗。やっぱり自然はすごい。それなのに君は、綺麗だとは一言で表現出来ないような顔でそれを見ている。見詰めている。

「ここに来て良かった」
「ありがとう」
「私こそ、ありがとう」
「うん」
 君は目を細めて笑った。
 反射する夕日がやけに眩しい。この土地の日照時間は日本のそれよりずっと長い。きっと僕の故郷よりも。長い長い一日を、日がなこうやって君と暮らしてゆく日々を望んでいたんだと思い、より一層深くなる思惑。

 海は穏やかに白砂を浚うけど、水平線は静まったまま。すぐ隣で幸せそうに息をする君の肩が少し冷たい。
 ああ、何故僕はこんな時、君を擁する言葉を持たないのだろうか。

「あっ、見て」
「うん?」
「雲が」
 沈む今日に照らされて、より立体感を増した入道雲に見入る君。その君の横顔に見入る僕は、ずっと言葉を発することが出来ないままだ。
「きれいだね」
「うん」
「あのさ、」
「うん?」
「えっと、その……」
「なあに?」

 考えてきたつもり。
 でも口から出るのは拙く単純な躊躇いの言葉ばかりで、一向に糸口が見えない。最初で最後なんだ。しっかり決めたいのに。

「リンちゃん変だよ。どうしたの?」
「変じゃないよ。変じゃないけど、うまく言えなくて、でも大事なことだからうまく言いたくて…うん、やっぱり変かも」
 君は笑ってくれた。だからますます在り来たりな言葉を返したくなくなってしまう。壁は高くなる一方。
 黙りこくったまま君の目を見ようともせず、見たこともない色の二枚貝についた砂を指の腹で払い続ける僕は心底意気地が無いのだと思い知った。

「リンちゃん」
「うん?」
「好きです」
「僕も」
「だからね、また来よう」
「また?」
「また。ずっと一緒ね」
「うん」

 君はいつも僕の言葉を引き出してくれる。愛に国境は無いと言う人たちがいるけれど、やっぱりそれは綺麗ごとなんだ。この感情を説明できない悲しさを、切なさを、こんなにストレートな言葉でしか表現できないやるせなさを──確かに在ってゆるぎない色んな事情を差し置いて、それでもやっぱり、好きなんだと思う。

「はぁ……」
 昨日空港で待ち合わせた君は珍しく袖の無いワンピースを着ていて、その上から羽織ったかぎ編みのボレロが可愛くてどうしようもなく好きだったのに。あの時それを上手く伝えられなかった事を、僕はまだ根に持ったままなのかもしれない。

「ねぇ」
「なあに、リンちゃん」
「ずっと一緒がいいな。君と、ずっと一緒がいい」
「うん」
「だから、」

 一生分の君を下さい。
 大切にします。
 ずっとずっと、大切にします。

 君が泣いた。泣くように笑ったのかもしれないけど。君は綺麗だった。やがて宵闇に飲まれる影さえも輝くほど。紛れもなく、今まで見てきた何よりも。やっぱり君はすごい。君は、君を、君と──

 僕はきっと綺麗だとは一言で表現出来ないような顔でそれを見ていて、渡すタイミングを逃してしまった小箱を左のポケットの中で角張りをなぞって確かめる。何度も、何度も確かめる。

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