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『匂いを讀む』吉本隆明

吉本隆明は,味嗅覚の,とくにそれの言葉の研究をやる上では基本テクストとして読んでおきたい.『言語にとって美とはなにか』における「自己表出」と品詞の話なんかは,言葉にならない感覚をことばにする瞬間の話で,味覚の言語化を説明するときには頻繁に登場していただくことになる.

『匂いを讀む』は「パルファム」という香水雑誌上のコラムを集したものらしい.一つの章が5-6ページで,とても読みやすい.『言語にとって美とはなにか』は挫折する人も多いと聞くけれども,この本は,たまさかある章で挫折しても,さっと次の興味ある章を読めばよろしい.

本全体は「匂いを讀む」と「現代における匂いとは何か」の二部構成.後部は「パルファム」の編集長,平田幸子氏との対談になっている.「匂いを讀む」の部は「「匂ひ」という古語」以下の22章からなり,「におい」の古語,語源に始まって聞香(もんこう,香道),それから和歌や芥川,漱石における匂いなど,とくに文学作品において香りがどのように扱われてきたかについてはかなり充実した内容になっている.

面白いなと思ったのは,「香を聞く」章と「古今集の匂い」章.
「香を聞く」章では,源氏物語における香りの評言を取り上げている.源氏物語の中でいろんな女性に香を調合させて,まあそれを競わせるみたいな話があるのだけれど(「梅枝」の章),「明石夫人の薫衣香は苦心のほどがわかる優美な香を豊かにもっている」といったように審判役の兵部卿が批評する.その批評を5つ取り上げたうえで,吉本は

こういう匂いの評言は,作者の紫式部が言葉の精緻さを傾けてやっているものだとみてよいものだ.匂いを言葉であらわすのに,このくらいやるのは現在でもとても難しいといえる.だから作者の力量は十分にうかがえるのだが,それでも匂いの実態を言葉にするのなら,もうすこし肉迫することは,できないことはない気がする.でも最終的には匂いを言葉にしてぴたりと言い当てることは不可能にちがいない.
言葉は「概念」の表現であることを大なり小なり避けられない(たとえ詩的言語でも)ものだが,匂いはそう言ってよければ日本人にとって「微分言語」と言うべきものだからだ.「香を聞く」という言い方は,匂いを「微分言語」として捉える特性を表しているように思える.
                                                               (pp20-21, 太字は引用者)

としている.紫式部に「匂い,もうちょい言語化できたでしょ」って言うんだからたまらんですよ.

本書『匂いを讀む』は,各章5-6ページというライトさの割に言語資料がきっちりしていて,その辺りでもなんか「キャッチボールで格の違いを見せつけられた感」があるのだが,なかでも「古今集の匂い」章はおもしろい.

『万葉集』と『古今和歌集』のちがいは? こう尋ねられたら,ここではただひとつ「にほひ」とか「香り」という言葉が,光や色に染みた雰囲気の意味と,嗅覚に感じる匂いの意味とに分かれる以前の歌集と,分かれた以後の歌集のちがいだ,そう答えるのがいちばんいい気がする.
                         「古今集の匂い」章

この導入からはじまって,「古今集の匂い」章では,「にほひ」や「香り」を(色彩の秀でているさまではなく)嗅覚に感じる匂いの意味で用いている和歌を分析している.

ちなみにこの本はもう絶版,出版社も廃業になってしまっている.


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