Track 02.『少年の詩』 虫田痼痾

心の靄が晴れない。
日々の苛立ちはどうしようもないほどに些細なことだ。しかし指先に刺さった棘がやがては肉を腐らすように、瑣末な悩みが心を腐らせていく。
目下、私を悩ませているのは蝿だ。本格的な暑さも過ぎ去ったから大丈夫だろうと油断した。気がつけば台所を、あの鬱陶しい小虫どもが飛び回っていた。台所に、といえばいかにも平気そうに聞こえるが、ワンルームの一室においてはそこはリビングでもあり寝室でもある。つまりは自宅での生活の大半を奴らと共に過ごすこととなるのである。
蝿取り紙。殺虫剤。殺虫トラップ。様々、対策を手元の端末で調べてはみるが選ぶのが面倒だ。用意するのが面倒だ。片付けるのが面倒だ。何より考えるのが面倒だ。だったら我慢してやろう。蝿に実害があるわけではない。どうせ冬が来れば死に絶える運命の連中なのだから。
しかし、たとえこの同居人の存在を諦念したところでこのイライラは止まらない。むしろ、だからこそ余計に苛立ちは募るばかりであった。
そもそも存在を認めたわけではない。面倒を噛み潰して奴らを処理するか、この五月蝿さを受け入れるか、二つに一つ、選択が必要だ。それが自立した人間というものである。しかし私がやっているのは後者ではない。ただ「選択しない」ということの選択、選択の放棄だ。だからこそ、その結果を受け入れるだけの覚悟も余裕もなく、成り行きを傍観しながら、そこから被る不利益、不快に文句を垂れるだけの日々が続くこととなる。
蝿の飛び交う部屋の中、湿った布団に転がっていると死体にでもなった気分がする。まるで自分自身が蛆の苗床となっているような。しかし実際は違う。邪魔くさい虫どもの発生源はゴミ箱だろう。恐らくは生ゴミを餌に彼らは今もあの円柱形の中で増え続けているはずだ。しかし開けて確認する気にはならない。開けてしまえば、あそこから出られず燻っている連中を部屋中に解き放つことになるからだ。放っておけばそんな危惧も不要に済ませられる。
わかっている。これもまた何も「選択しない」だけの行為、選択の放棄だと。
掃除もそうだ。蝿の湧くような部屋だ、ろくに掃除もされず、汚れ切っている。やることといえば積もった埃を静かに置いておくこと。埃も舞わなければ喉の痛みや目の痒みを引き起こすこともないのだから。
それが私の思考のベクトルだ。後の考えがあるわけじゃない。ただ今の面倒から逃げるために理由を付けては「選択しない」ことに流されているだけのことだ。考えてみれば人生なんてものはある程度の段階までは選択などしなくとも進むことができる。敷かれたレールの上とまでは言わないが、放っておけば何とかなってしまうものだ。自動的に義務教育を終え、高校に行き、皆が行くから行ける大学に入る。早い段階でそれに対して反発を持った人間は幸いである。
青臭い万能感や将来への過度な希望、しかしそれらは青春時代にのみ許された娯楽なのであり、人間は娯楽の中で生きる術を覚えていく。いや、人間だけではない。それは動物に共通の成育の過程である。つまり私は動物でさえないということになる。そうだ、結果として私は畜生以下の存在に成り下がってしまったのである。
点けっぱなしのラジオの中でブルーハーツが歌っている。
「パパ、ママ、おはようございます。今日は何から始めよう?」
『少年の詩』
主人公のこの少年は一体何がしたかったのだろうか。かつての私には理解できなかった。
「テーブルの上のミルクこぼしたら、ママの声が聞こえてくるかな?」
無意味な反抗。大人に対する無軌道な嫌悪。子供特有の愚かさ。それらのすべては私には無縁なものだった。
「先生たちは僕を不安にするけど、それほど大切な言葉はなかった」
勤勉。礼儀。常識。道徳……
全くもってその通りだ。私はお前らの求める「良い子」でいてやった。それが「選択をしない」ことの結果であったとしても。それが今じゃ、この有様だ。蝿の処分一つ自分で決められない生ける怠惰。笑いたければ笑えばいい。だが、これだけは覚えておけ。この劣等生は、この失敗作は貴様らの業だということを。
「誰のことも恨んじゃいないよ。ただ大人たちに褒められるような馬鹿にはなりたくない」
少年よ。私は君とは真反対の人間だ。
そしてその対極とは右と左ではない、上と下、だ。もし君のように生きていたら、私も誰のことも憎まずに生きられただろうか。
あの頃、何一つ心を動かさなかったブルーハーツの言葉の銃弾が、今になって私の心臓を貫いていく。もはや枯れて血も出なくなった私の心臓を、ナイフのような鋭さで。
今になって思う。私もそう生きるべきだった。社会の言いなりになることに疑問を、反抗を、憤怒を抱くべきだった。たとえそれが一時的には曖昧な自己実現への渇望であっても、そこで撒かれた種子はやがて花となる。
今、私の種は腐って蝿がたかっている。当然の帰結として。住居がその住人の有り様を表すのだとしたら、今ほどピッタリで皮肉的な状況もないだろう。
もう花が咲くはずもない人生。望んでも戻ってくることのない過去。暗く淀んだ未来だけが目の前には広がっている。素朴で凡庸過ぎる苦悩。しかしそんなものにさえ、私は打ち勝つことができない。自分で決まられることなど、自分の生死くらいのもの。いや、違う。それさえも、もはや私の自由にはならないのだろう。
見上げた天井に蝿が止まっている。それは1匹2匹と増えていき、あるとき限界を迎えたようにいっせいに飛び立つ。そしてまた耳障りな羽音を響かせながら、その生を全身で謳歌するように自由に飛び回るのであった。
決めた。私は君たちを受け入れよう。君たちは私の心の表象だ。君たちの意思に反して潰すことはしない。短い命を、無意味な生を全力で楽しめ。私にできなかったことを君たちに託そう。
ようやく至った選択。これで何が変わるわけではない。相も変わらず部屋は侵略者に占領され、心の靄は一向に晴れない。だがそれでいい。もう手遅れなのだ。
「そしてナイフを持って立ってた」
甲本ヒロトが繰り返し、そう歌う。
私はナイフを手にするにはもう遅すぎる。私はもう少年ではないのだ。
我が愛しき少年よ、蛆にまみれたこの姿を見よ。何一つ自分で選んでこなかった人間の惨めな末路を、この無様な死体を憐憫と嫌悪の混じった目で見ておけ。そして、自分の正しさを確信するがいい。それが私のせめてもの矜恃だ。
「少年の声は風に消されても。ラララ……間違っちゃいない」


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