Track 06.『Endless Humiliation』/虫田痼痾

自分の中に何かがいる。そんな奇妙な感覚を覚える。しかしそれを文字通りに捉えられては困る。多重人格だの分裂症だのといったクールなものじゃない。端的に言えばただ"決められない"のだ。"すべきこと"と"やりたいこと"は生活において必ずしも一致しない。しかしそこは折り合いを付けねばならないことであり、それがポリス的動物というものである。しかし今の私にとってその舵取りは困難を極める。自分の中のいるある面は"やれ"と言い、別のある面は"やりたくない"と言って譲らない。親と子の言い合いのような卑俗で傲慢な病。それでも私にとってこれは生活を、そして命を左右する問題なのである。

植物に心はあるのか?
魚に心はあるのか?
爬虫に心はあるのか?
動物に心はあるのか?
確かなことは少なくとも人間には心があるということだけである。
では心はどこにあるのか?
ある人は脳だと言う。私はそれだけは違うと思っている。たしかに心が脳神経シナプスの電気信号の交流から発生するものであるという論に異存を挟む気はない。だが脳が心の生みの親であったとしてもそれを軽々しく同一視することはできない。私は常に感じている、脳と心の軋轢を。適応障害。不安障害。自律神経失調。鬱病。日常を様々な病気に苦しめられていると脳と心は別のところにあることを嫌という程に思い知らされる。あくまで心は脳の支配下に、もしくは反対に心が脳を支配しているのかもしれないが、いずれにしても、下部組織と上部組織が一体として系統立って動くことがすなわち健常である。それは人間という生物に関わらず、あらゆる団体・組織についても同じことが言える。上が、もしくは下が腐り、その連携が崩れたとき、その集団の終わりは近い。できることは腐った部分を切り捨て、新しい部位にすげ替えることだけだ。だが一度組織に入り込んだ腐敗は黴のように根を残す。遅かれ早かれ崩壊へのカウントダウンは再開される。それを止めたいならば腐敗の根が潜む可能性のある部位を、つまりはすべての部位を時間をかけて総入れ替えするしかないわけである。

……話が逸れてしまった。話を人間に戻そう。

先にも述べたように脳と心が一致していることが健常というものだ。脳がやりたいと思ったことが心のやりたいことであり、脳が拒否することが心の拒否することである。しかし人間の構造とは複雑怪奇なものである。そこに発生する軋轢は人間自体の問題でもあり、また人間を取り巻く環境、いわゆる社会という要素も大きく関わっている。"やらねば"と"やりたくない"そのアンビバレンスな同居は人間の内には度々見られることであり珍しいことではない。多くの場合、それは上位から下位への強制か、もしくは和解という形で解決される。そして結果として脳と心は道を違えることなく、存在として健常を維持し続けられるのである。

しかし病が入り込んだこの体、いやこの存在にとってはもはやそのような会議の場は設けられない。穏健な会議は暴動に取って代わられ、心と脳は話し合いを放棄、武力による解決を図る。そして、その抗争こそが病の症状として現れ、私を苦しめるわけである。
社会への適応とは優れた国家のようなものである。共和制にしろ王政にしろ独裁制にしろ、国家と国民は一体である。多少の異論は当たり前のようにあろうとも、それは合議、法律、その他何かしらの方法によって調整される。一方で病んだ国家の内では国家と国民は敵対する。それぞれがそれぞれの主張を通し、それぞれがそれぞれの利益を求めるだけ。そう考えれば、私の体は解体寸前の国家と同じなのかもしれない。自浄作用どころか再構築さえままならない。薬物という名の他国軍を招き入れても鎮圧は見えてこない。それこそ考え得る最良の手段は"入れ替え"である。政府を入れ替え、軍部を入れ替え、国民を入れ替える。私自身の話に置き換えれば、病んだ脳を入れ替え、瀕死の心を入れ替え、朽ちかけた体を入れ替える。だがそれは私という存在にとって死となんら変わりはないのかもしれない。

……考えれば考えるほど話は極端な方向に逸れていく。

現実問題として、自死せずしてこの境遇を乗り切る方法はないものか?
兎角、脳と心の常軌を一致させる必要がある。そのためにはどちらかに黙ってもらうしかない。"やらねば"を無視するか"やりたくない"を黙殺するか。文字に起こせば単純はことだ。しかし実行するには困難を極める。人によってはそれが簡単にできる者も多くある。それどころか、どちらかがどちらかを欺き、安寧を保てる者もいる。それが"普通"で"健常"な人間という言うものなのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
心の問題は他者との比較ができない。だから"普通"というものを理解することができない。自らの生来の"劣等"に"異常"に、気づくことなく生き続けるしかない。そして取り返しのつかない崩壊を迎えてから、ようやく真実を知るのである。個人の尊厳だなんだと世間では喧騒しながら、結局、私のような"障碍者"は矯正を求められる。そしてそれが不可能だと分かると唾棄されるのだ。
社会の言う平等とはこういうことなのか?
私は思う。平等と均一化は違う、と。私とて国家の寄生虫になりたいわけではない。いくらかの役に立ち、いくらかの貢献を成したいと思っている。しかしそのために均された手段を強いられることは我慢ならない。これは我儘で言っているのではない。私も努力してきたつもりだ。"普通"であろうと、皆と同じであろうと懸命に努めてきた。しかしその結果がこの惨状だ。私の病気は生まれつきのものかもしれない。しかし私を"障碍者"にしたのは間違いなく社会だ。

今、恨み辛みを並べても仕方がない。わかってはいても口をついて出るのは呪詛の言葉ばかり。話が進まない。

私はこの状況を打破しなければならなかった。
仕事に行くために安酒を煽るようになったのは私なりの知恵であった。9パーセントのアルコールを一気に流し込み、脳を、心を鈍重にする。そうすれば考えることができなくなる。考えなくなれば、あとは人間はロボットのようなものだ。いつもの通勤路を行き、いつもの仕事を行い、いつもの帰路を戻ってくる。もちろん仕事は効率も精度も落ちる。それでもやらないよりはましだった。だが、そんなことを毎日続けていると当たり前のように怪しまれる日が来る。日常的にアルコールのにおいを漂わせることは社会的には受け入れられない。昨日の酒が残っているのかもしれない。今朝のマウスウォッシュ液のにおいだろう。消毒用エタノールの香りが強い。考え得る限りの言い訳を駆使したものの、周囲から訝しがられながら、こんな習慣を長く続けることはできなかった。
そうなると次は薬しかない。デパス、コンスタン、ブロチゾラム、フルニトラゼパム、とにかく脳を鈍重にできればそれでよかった。とはいえ薬の処方量は決まっている。医者にもっともっとと強請っても簡単に呉れるものではない。さらに困ったことに睡眠薬も抗不安薬も服用を続けていると耐性ができてしまい、効果が薄くなる。そうなると服用量は増え、薬が足らなくなる。通院日に手に入れた薬が半月でなくなるようになり、1週間でなくなるようになり、やがては数日ともたなくなる。そして、やがては貰ったその日のうちに薬は尽き、残りの日々は布団で過ごすことしかできなくなっていった。

働きもせず怠惰の限りを尽くす私の生活はさぞや楽しい日々だろうと思われるかもしれない。"やらねば"を排除し"やりたくない"を押し通すような生き方をしているのだから、そう思われても仕方がない。しかしこんな生き方をしていても、脳と心の歪みはまだまだ私を虐げることを止めてはくれない。堕落した人間は楽しいという感情を持ってはいけない、そんな感覚が襲ってくる。
お前は働きもせずに享楽だけを得ようと言うのか?
そんな声が聞こえてくる。そして今では笑うことにさえ罪悪感を覚えるようになった。自分はとことん不幸にならなければならない。もちろん実際に誰にそう言われたわけではない。これはあまりにも非合理な感情だ。しかしそんな非合理な感情が理論を上回ってしまうのは私の病ゆえだろうか。いっそのことどちらかの自分を殺してしまいたい。考える自分か感じる自分、そのどちらかを。ただただ何の疑問も抱かずに、もしくは何の感情も抱かずに生きることができたらどんなに楽だろうか。

生きることの苦楽は表裏一体だ。しかし、その比率は必ずしも同じではない。苦渋だけに満ち溢れた人生もここにある。人間はなぜ生きる?幸福のため?もしそうだとしたら私はもう生きない方がいいのだろう。それも非常に合理的な考え方だ。だがここに最大の脳と心の対立が現れる。つまりは"死にたい"と"死にたくない"の対立である。そしてこれこそ我が人生の命題である。

To be or Not to be, It's a question.

悲劇の主人公、ハムレットにとってそれはまさに英雄的問題であった。脳も心も共に悩み、存在を賭して答えを求めるべき問題。しかしたとえ表面的には同じ問いであったとしても、私のこのあまりにも愚人的な問題はハムレットのそれの本質とはまったく違う。問いの答えはもう決まっている。私は"死ぬべき"だ。分かっている。自分のこの存在を維持し続ける意味などもはやない。社会のためにも自分のためにも、死ぬことこそ最良の決断である。だが唯一それに反対するものがいる。心である。

我が心ただ一つだけが"死ぬべき"を否定する。それが私が今も生き続けている唯一の理由である。レミングスのように種の保存のため本能的に自殺ができれば、どんなに理想的だろうか。心に邪魔されることなく、脳が発する本能に素直に従うことができればどんなに楽だろうか。私は人間の心が憎い。これさえなければ私は死ぬことができる。いや、それどころかこんな日々に思い悩むことさえもしなくてよいのである。

もう一度問いたい。
心はどこにあるのか?
脳にあるというのならば脳を壊そう。心臓にあるというのならば心臓を貫こう。腸にあるというのならば腸を引きずり出そう。そうすれば私は心を失うか、命を失う。そのどちらにしろ私は私が求めている結末が得られるだろう。そしてもしもう一度生まれることがあるのならば"健常"な人間に……

すべて空想である。すべては病に伏した脳が作り上げた褥の夢である。
結局のところ、私は自分の中で起こっていることさえ理解できない。ただ苦しみがそこにあって、私は生きている。ただそれだけ。何が起こっているか分からない真っ暗な箱の中から生まれた悪魔に苦しめられている。ただそれだけの道化師の悲喜劇がそこにある。今が朝なのか夜なのかも分からない。また私は眠りにつく。そして次に目覚めたとき、私は今度は何に苦しめられるのだろうか。


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