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好きな人と過ごすことは、ゆっくり呪いをかけられることと同じだ。

オレンジ色のパーカーを着た、大きくて少し猫背な後ろ姿を小走りで追いかけていく。
赤いコンパクトカーの助手席に乗り込み、
これから始まる一日を思い浮かべ、思わず笑みが溢れた。優しい手がハンドルを握る。
彼がセレクトした曲は私も大好きな曲だった。カーステレオから流れる馴染みの曲を2人で口ずさみながら、私たちの乗る車は少しずつ加速していく。

好きな人が好んで着ていた衣服、愛用していたもの、好きだった音楽や小説、その片鱗にふとしたタイミングで触れるたび、記憶の底からその人やその人と過ごした毎日を思い出す。
思い起こされると言ったほうが正しいのだろう。
だってもう自力ではもやがかかったかのように、顔立ちも、声も、手の温もりも思い出せない。
2人で2年半を過ごしたという事実は存在しているのに、何を見て何を話したのか、何に笑って、何に怒って泣いたのかさえ思い出せずにいる。
それなのに、自分でも忘れていたと思っていたことが、あるきっかけで簡単にその日に戻ったみたいに、鮮明に思い起こされるのだ。

もうこれは、一種の呪いだと思う。
前を進むために"忘れる"という機能をインプットされた人間に対する、古典的なアンチテーゼ。
そして、誰も解き方を知らない。

ある年齢を過ぎると、こういった呪いを一つ二つ、かけられていることに気づく。
きっとそう感じているのは私だけじゃない。
今を生きる大半の人が、同じような呪いを抱えて生きている。

大人になるということは、呪いを受け続けることなのかもしれない。

キーになるものは人によって千差万別で、それも、どこにでも転がっているものが多いから厄介だ。
槇原敬之の人もいれば、私にとっての斉藤和義のように、誰かにとってのお台場が、私にとってのみなとみらいなのだ。

そういえば、斉藤和義が好きだということを、こないだまで付き合っていた人には言わなかった。
付き合い始めた当初、デリカシーのない私がうっかり元彼の話をしてしまって、彼が機嫌を損ねたからだ。
だからなんとなく、元彼に紐付くものには蓋をしていた。

聞けない音楽。
行けない場所。
その人との結びつきが強いものを排除してしまうと、まるで私とその人との日々が幻のように思えてくる。
記憶というものは曖昧で、外部装置にしていた記録が消えてしまったら、最初から記憶していなかったものだと脳が勘違いをしてしまうこともある。
だからこそ、呪いを踏み抜く瞬間、脳に一気にフラッシュバックする光景に、酸いも甘いも噛み締めながら日々を生きていたことを実感する。

呪いを共有したい、と思い始めたのはごく最近だ。
呪いは、その人が誰かを愛し、愛されて生きてきた証拠だ。
だから、その人の抱える呪いに自分が傷つけられることもあるだろう。
斉藤和義の話をすることができなかったあの頃の彼も、傷つくのが嫌だったのかもしれないと、今なら分かる。
けど、私は知りたい。
好きな人が好きだった人に教えてもらって好きになったもの、丸ごと好きになってしまいたい。
好きな人が受けた呪いごと、好きになりたい。
どうか好きな人には、そのまま呪われていてほしい。

私を愛車の助手席に乗せていた彼は、今は別の人を乗せているみたいだ。
狭いネットの海の中だから、そのことは私の岸辺まで簡単にたどり着いた。
私も憧れる人で、結果論になってしまうけど、2人が心を通わせるのも当然だと思えるほど、お互いの魅力の方向性が合致する、お似合いの2人だ。
もう何の感傷も持ち合わせていないし、そもそもそんな資格もないのだけれど、願わずにはいられない。
どうか、くだらない呪いで私のことを思い出しませんように。
そして、私の願いの届かないくらいの距離で、幸せになってください。

#日記 #恋愛 #コラム #エッセイ

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