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母の戦争体験(序文)

2021年4月18日 母親が93歳で他界した。

7日前には、「ゴールデンウイークになったら面会にいくからね。」「コロナの状況がわからなから・・」と電話で会話をかわしたのに・・
木曜日に入居施設から救急車で緊急入院したとの連絡、病院に行くとすでに酸素マスクを着け、肩でやっとのことで息をしている状態だった。
この1年間コロナのために会うこともできず、電話での会話のみで、1年半ぶりに見た母は、本当に小さくなっていた。

私がベットのそばに立つと、ほんの少し目を開け、わずかに口を開き、かすかに何かを言いたそうだったが、手を握っても、握り返すことはなかった。

母は、その2日後容態が急変し息を引き取った。大阪から急いで駆け付けた兄が、仕事のためにいったん戻るその日の朝だった。帰らないでと思ったのであろうか、それとも行ったり来たり大変だからと親ながらに気遣ったのであろうか。

母は昨年、自分の戦争体験を原稿用紙に書き溜め、自分の出身地である地方の新聞社に送っていた。
自ら新聞社に電話をして、送った原稿の確認をしきりにしていたようだ。その後終戦75周年の特集として掲載するとの連絡が。
それは母にとって本当にうれしかったことのようだ。
電話で掲載日を楽しそうに話してくれ、私は地方新聞を扱っているお店に、仕事前に寄って新聞を買いにいった。
大きく載っているよと電話で知らせると喜んでいた。

その後施設に新聞が送られたが、母親は記事を見てうれしくも少々不満だったようだ。
母は自分が送った原稿がすべてそのまま掲載されるものと思っていたようなのだ。
400字詰め原稿用紙13枚にもなる文章を、新聞にそのまま載せられるわけがないのだが、新聞のページ半面に大きく記載されていても、書いた文章が抜粋での掲載だったことに不満だったようなのだ。
母親は自分の書いた原稿が新聞に載るのと共に、多くの人に読んでもらえる姿を想像していたのかも知れない。
(新聞社は、送った原稿の一部をWEBで掲載してくれたのだが、インターネットすらわからない母親には紙の新聞そのものがすべてだった。)

母親の残念そうな声を聞いて、WEB上に母親の書いた原稿を上げ、母親に「ネット上に全部掲載したからね」と慰めてあげようと思っていたが、そのうち・・と思っているうちに母親は他界してしまった。

今回このnoteを利用して、亡き母親が書いた戦時中の体験を掲載したいと思う。出来る限り本人の書いた文章をそのまま掲載します。名称等もそのまま掲載します。読みにくいところもあるかと思いますが、読んでいただけたら母親も喜ぶと思います。

母の戦争体験(1)太平洋戦争

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