見出し画像

旅人になっていた日

 34km歩いていた。
 行動時間はほぼ9時間。少々休憩はしたので、実質的には8時間半程度だろうか。
 スタートは千葉県市川市にある市川橋。
 ひたすら江戸川を遡上する形で歩き続けた。
 目的地があったわけではなく、歩いてみたくなっただけだった。延々と川沿いの土手を歩いて、景色の移り変わりを眺める。
 それだけの旅。

 そう、旅だったのだ。
 あの日、私はまごうことなき旅をしていた。

 自分の足で地面を蹴って、風の強さと冷たさに気圧され、あんまりにも天気がいいので笑っていたのである。
 見たことのない町並みに人の営みを想像し、さりとて近づくこともない。短い時間だけ立ち止まり、留まることなく流れていく旅人として、私は確かにあれらの町を眺めていたのだ。

 思い起こしてみれば、ただ歩いていたというだけの記憶と記録が、微かな高揚として胸の内に未だに燻る。
 旅と、旅人に憧れる人であったのか。そんなふうに自分を思うが、同時に帰る場所があることにこの上ない有難みがある。
 鳥のように自由に、速く他所へ行きたいとはさほど思えない。
 獣のように自在に野山を駆けたいとも、やはり思えない。
 人らしく、のろのろと、町や野を歩いてゆきたいと思う。

 記録を残しておこう。
 ただ歩いただけの、ある日の私の記憶を形として残す。
 明くる日に、また歩くこともあるだろうから。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?