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「君を線で追いかけた。」

「僕は、人は上手く描けないんだよ。特に女性はね」

そう言っていたのに。

「先生は嘘つきです」

アトリエにあちらこちらに山積みにされた、膨大な数のクロッキー。
それはある女の人を、とてもいきいきと写しとっていた。
なめらかな、えんぴつが滑るような線。
無我夢中で、描き出された、走らされた、えんぴつ。

こんなの私じゃなくたってわかる。
かなり上手い。

「違うんだよ」

細身の先生は、ふらふらと体を揺らして、困ったように目を細める。

「僕の手がね」

指の細く、長い、骨張った手。

「僕の手が、どうしても覚えてしまっているみたいで」


先生の話はこうだった。

ある時、ある女の人をクロッキーしはじめた。何枚も、何枚も。
あまりにたくさん描いたので、人を描こうとすると、手が勝手に彼女の輪郭を追ってしまうのだという。目の前のモデルを描こうとしているはずなのに、手がその人の輪郭を描いてしまう。似ても似つかない絵になってしまう。そんな話、あるだろうか。

「上手くなりたくて練習したのに、変だよねぇ」

笑う、先生。

先生、本当にそれだけですか?
クロッキーが上手くなりたかっただけ?それでこんなに、何枚も……?

私は数百にも及ぶ紙の束を見やった。

あぁ、この人は今どこに。


高い天井に細長い窓があり、自然光がたっぷり入るアトリエだった。
先生はこの場所で、ずっと光の中にこの美しい人を見ていたんだ。

今は、窓から差し込む光に、先生のひょろ長い体が照らされて、頼りなげに揺れている。

あぁ、なんて寂しくて、愛しいんだろう。

私はその背中に、あの女性を与えてあげたくて、だけどそんなことできるはずもなくて、ただ、先生のことを描くのはやめておこうと、そう思った。



☕️『カフェで読む物語』シリーズ
2.3分で読める、小さなお話。 例えば、カフェでコーヒーが出るまでの待ち時間に読んでもらいたい、ワンシーン小説です。 ちょっと1話、読んでいきませんか?

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