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忘却に、愛を。


「君に、看取ってほしくないんだ」

僕は率直に告げた。
だから、面会は今月までにしてほしい、と。
もう時期、僕は死ぬ。余命は2ヶ月もないだろう。

「どうして……」

紀美子は狼狽して、花瓶に花をさせずにいる。
傷ついた顔をしている。


紀美子は、繊細で、いつだって感受性が豊かなのだ。
彼女がどんなに化粧で隠そうとしても、僕はその目の腫れに気付いてしまうし、
自宅で小さなため息を繰り返している姿も簡単に思い描けてしまう。僕は彼女を愛しているのだから。
そんな彼女だから、僕が弱り苦しみ、死んでいく姿を見せたくなかった。
それは彼女の脳裏に焼き付いて、きっと何度も思い起こすことになるだろう。
そうなったらもう、紀美子は身動きが取れない。


「私が、弱いから……」

彼女は震える声で呟いた。
僕は彼女の手を取る。

「違うよ、君が優しいからだ」

その小さな手をさする。
僕の愛する人に、これ以上心を痛めてほしくなかった。これは僕のわがままでもあるのかもしれない。


数日の間、病室に来ても無言で過ごした後、紀美子は僕の要望を受け入れた。
彼女はきっとたくさん泣いただろうが、僕としてもどうしようもなかった。

「今日で面会は最後の日ね」

月末、彼女は僕にそっと告げた。
小さな丸椅子に腰掛けて、僕の手を取る。
僕らはしばし見つめ合った。

「愛してるわ」

彼女はそう言い、

「愛してる」

僕はそう返した。
どうにか言葉を探そうとしたけれど、紀美子への気持ちを言葉にしてそっくりそのまま伝えることは不可能だと思った。
だから2人ともそれ以上は喋らなかった。

「君はまだ若い」

僕は妻を見つめて言った。

「それ以上は言わないで」

彼女はピシャリと言った。
僕は黙って従った。どちらにせよ、僕の死後に彼女が思い悩みそうなことは全て遺書にしたためてある。

ふと、見ると、病室の窓から夕日を眺める妻の目から一筋の涙がこぼれ落ちていた。
これまでどんなに苦しくとも、病室では笑顔でいようと努めていた紀美子がだ。
僕は妻の手を両手で包んだ。嬉しかった。
僕らはこの最期の瞬間に、「病気の夫とその妻」ではなく、「ただの夫婦」に戻れたのだ。

「本当に……」

彼女の声は震えていた。

「本当に、もう会えないの……?」

僕は優しく微笑んだ。

「あぁ、僕を愛してるなら、会わないで」

不思議と泣きたくはならなかった。
彼女がいるから、僕は強くなれる。
最後まで彼女に守られているんだなぁ、と心の中で苦笑した。


彼女は、最後の花を花瓶にいけて病室を後にした。
白いヒナギクは僕が最初のデートで渡した花だ。
あぁどうか、彼女がこのままこの恋を、ここに置いていってくれますように。


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