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暮れの便りは

この一年、何度先生に呼びかけたかわからない。

留年したときは、親から大目玉ものだった。
けれど、それで私は先生ともう一年一緒にいられた。

今年は流石にそうもいかなくて、私はなくなく卒業し、名門大学の看板を引っ提げて出版社に潜り込んだ。
「もっと勉強したかったので」
真面目そうな黒髪丸メガネのなりでそう答えれば、面接官は嬉しそうにうなづいた。

事実、私は先生とフランス文学について話してばかりいた。白い髭を口元にたくわえ、落ち着いた声で喋る先生。本当は内容なんて何でもよかった。その声を、抑揚を聞いていたいがために、私はまた一つ、質問するのだ。

「先生、この一文はどういう意味でしょうか?」

そういう質問グセが、自分でも気付かぬうちについていたのだと思う。
働くようになってからも、何かにぶつかるたびに私は心の中で「先生」と呼びかけた。もう、そこに優しい声はないのに。


卒業の日、私は先生にまた会いに来てもいいか、と聞いた。けれど、白い髭をなでつけてから「きっと他に行き先ができるよ」と返された。

私は、ひとりぼっちだから先生といたんじゃない。他に友達がいないから先生といたんじゃない。
先生が好きだから、先生といたのに。例えどんなにうまく進んで、他に居場所ができたとしても先生との時間は特別だったのに。

悔しくて、悲しくて。
でも、やっぱり未だに呼びかけてしまう。


だから、年が暮れるころ、きっと便りを出そうと思っていた。葉書一枚。年賀状のふりをして、先生に言いたいことがたくさんあった。

だけど、呼びかけ続けた日々だったのに、私はペンを手に取れない。
先生の中では、もう終わったことなんじゃないだろうか。そう思うと「きっと、きっと」って思っていたはずなのに、募った想いのあぶくも弾けて、怖気付く。

先生、私は、あなたへ何も書けないかもしれない。もう終わったこと、のほうが、きっといいのかもしれない。
あの頃みたいに素直に駄々をこねられなくて、そんな風にも思ってしまう。




「先生、どうして彼は彼女を追いかけなかったんですか?」
古い電灯は光が弱く、それでもすりガラスの窓から太陽光がたくさん入って、大きな漆のテーブルの上で白く反射していた教室。
私は意気揚々と質問して、コーヒーを片手に先生は口ひげを撫でる。いつもの風景。

「彼が彼女よりもう少し大人で、人間で、自尊心があったからだろうね」

低く柔らかく、温かい声が、あの日の記憶が、今意味を持って、頭の中に沁みていくーー


先生、私は少しだけ大人になったから、今はあなたに言葉が送れないのでしょうか。でももっと大人になったら、また会うことは叶うでしょうか。

先生。
ゆっくりと年が暮れてゆきます。


☕️『カフェで読む物語』シリーズ
2.3分で読める、小さなお話。 例えば、カフェでコーヒーが出るまでの待ち時間に読んでもらいたい、ワンシーン小説です。 ちょっと1話、読んでいきませんか?



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