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80年後の読者へ/ 阿壠『南京 抵抗と尊厳』を読んで

 日本翻訳大賞という賞がある。これは、その年に発表された翻訳のうち、一番賞賛に値すると思われるものに贈られる賞だ。選考委員だけでなく、読者からの推薦も仰ぐのだが、この、読者たちが寄せる推薦文集が、どれも推しへの愛に満ちており、たいへん良質な海外文学ガイドになっている。これは日本翻訳大賞ウォッチャーにとっては周知の事実で、かなりの数のひとが読者推薦文集を毎年楽しみにしているとおもう。もちろんわたしもその一人だ。未読の方はぜひ読んでみてほしい。

 で、お祭り大好きなBFC系を自認するわたしとしては、こうした本の祭典にのらないわけにはいかない。〆切は1月31日。いつもてきとうなHNで書いていたけど、今年は冬乃くじの名前で、まじめに書いた。推薦文は400字。オーケーオーケー、400字ね。任せろ、おれは字数を守る人間。と思っていたにも関わらず、ちょっとした手違いで、560字になっていた。あれ……。えっと……。なんとか受付してくれるかな……? と思ったけど、受付してもらえなかった(あたりまえか)。ので、泣く泣く削った。ウワァンという気持ちで。でも、でも、削りたくなかった。だからおれはここに残しておく! ワッショーイ! なんて便利なんだ、自分のブログを持っているということは……! せっかくなので個人的に気に入ったところなどを追記した。だって自由だもんね。書くの楽しい。楽しいぞ。それではヒアウィゴー。

 というわけで、これだ! おれがいま、ガチで推したい本は!

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 かるーい感じで出してみましたが、重いですよね……。だって南京って、あれだよね。て感じですよね。そうです。あれです。この表紙を見て、おもしろそう、と思う人、つらそう、と思う人、かなり分かれるのではないか。ちなみにわたしは後者だった。

 余談。南京戦についてはこれまで、清水潔『「南京事件」を調査せよ』しか読んだことがなかった。これはジャーナリストである清水氏が、戦後70周年の特別報道番組をつくるため、南京事件(=南京大虐殺)についての調査に乗り出すところから始まるノンフィクションだ。「南京大虐殺はなかった」と主張する人たちは後を絶たない。外務省のHPに南京事件の存在を認める記述がわざわざ書かれるくらい、疑う人が多い。それはなぜなのか。あったのか、なかったのか? 真実を自らの目で確かめるため、清水氏は取材を開始、中国と日本を跨いで、第一次資料を探す旅に出る。戦後すぐ日本政府が証拠を隠滅したこともあり、苦労するものの、最終的には日本兵の証言や日記などの第一次資料を複数入手することに成功。それに基づいて『日テレNNNドキュメント 南京事件 兵士たちの遺言』が放送される……。取材の手法も資料の分析も、非常に説得力があり、「南京大虐殺はなかった」などという主張が明らかな間違い(あるいは嘘八百)であることがしみじみとよくわかるものだった。そしてやはり、日本兵のしたことがあまりにも残忍なので、本当に、本当に戦争だけは避けなければいけない、と思わされる。そんな本だった。機会があればこちらもぜひ読んでほしい。

 『「南京事件」を調査せよ』に載っていた、日本兵の日記に綴られた南京大虐殺の内容が、正視にたえないものだったので、『南京 抵抗と尊厳』というタイトルを初めて見たときは、正直に言って「南京……ああ、南京大虐殺の本かぁ……」と憂鬱な気持ちにならないでもなかった。読まなきゃなぁとは思うけど、自国の加害をあらためて思い知らされるし、あの残虐な仕打ちを行うさまをわざわざ小説で読みたいかと言えば、うーん、積極的には読みたくない……。読まなきゃなぁとは思うけど……。そんな気分だった。

 ところが、この小説はわたしの予想を大きく裏切った。そもそもテーマは南京大虐殺ではなく、南京戦そのものだった。描かれているのは、中国人のひとりひとり、日本人のひとりひとりがどう生きて、どう死んだのかであり、南京大虐殺は、最後のほうに出てくるひとつの事件に過ぎなかった(とはいえ、最悪の事件であることは変わらないのだが)。さらに言えばこの小説、「読まなきゃなぁ」とか、読むのを渋る類のものではなかった。誤解を恐れずに言うと、めちゃくちゃおもしろかった。なぜおもしろく感じたかと言えば、それはひじょうに個人的な理由になる。この小説の中に、「戦時に放り込まれたわたし」が存在していたからだ。

 実を言うと、これまでわたしは、「日本が関わる戦争ものフィクション」の中に、自分を見出すことができなかった。それは、作品を通じて、戦争の酷さなどを強く感じたり、憤ったり、悲しんだりすることとは、まったく別の次元のことだ。たとえば「戦争は嫌だねぇ……」とつぶやく老婆と、それを叱りつける男が登場する。わたしが感情移入するのはどちらかといえば老婆の方だが、叱りつけるような男のそばで自分が「戦争は嫌だねぇ……」と呟くイメージがわかない。そんなセリフを言うだろうか、わたしは? はたまた、ラジオを聞いて「強いぞ日本、やっつけろ!」とか騒ぐ子ども。人を人とも思わぬ憲兵、えばり散らす町長、「日本は負けます」と言いながら徴兵されるメガネの男学生、涙をこらえて見送るもんぺ姿の若い女学生……。どれも、心理状態は理解できるのだけど、あまりに類型化されすぎたこういう登場人物たちのひとりに、わたしはなりきれなかった。男尊女卑が染み渡っている世界だからかな、とか思っていた。だいたい、今の日本社会にすら馴染めていない自分が、当時の日本社会の構成員代表に近づけるはずもないのかもしれないという根本的な問題はあるのだが、とにかくこれまで、戦時に自分が放り込まれたらいったいどうなるのか、全く予想ができなかったのだ。たぶんこういう類型化された物語でいえば、東京大空襲で逃げまどう人々か、あるいは沖縄で集団自決を迫られる人々か、あるいは広島で、長崎で、原爆によって被ばくして苦しむ人々か、そういう集団の中にいるのかな。あるいは戦争始まる前に弾圧を受けて獄中で死んでしまったかな。そんなふうに思っていた。

 ところが、『南京 抵抗と尊厳』は違った。群像劇なので、キャラクターが大勢出てくるのだが、自分と似た要素を持つ人が、至る所で見つかったのである。

 一番たくさん自分を見かけたのは、学生出身の軍人たちの中だった。たとえば、議論の中についつい好きな文学の話を織り交ぜちゃう人とか。好きだった映画館を爆撃されて怒り心頭したあと、「映画館壊してどうするんだろう。これにどんな軍事目的があるのか。これでどれだけの中国戦力を削いだことになるというんだ? 文化を破壊したいのか、それとも中国人を全滅したいのか? 恐怖を作り出すことには成功しているけれど、他には特に益がないんでは?」と考え込んでしまう人とか。もともとは罪を憎んで人を憎まずのタイプで、日本が悪いのではない、戦争が悪いのだ、って思っていたけれど、街が破壊されすぎて日本を憎むようになった人とか。これおれじゃん、おれじゃん、この人もおれじゃん。将校たちの中にも、いた。その将校は、部下がたくさん死んだとき、ぽろぽろ泣きながら、「人類はどうして……」とか「地球はどうなるのか……」とか、思わず大きい主語の考えで頭がいっぱいになってしまっていた。

 そういう人たちが、戦争の中で自分を見失っていく(あるいは突然死ぬ)様子が、「うわ~ おれもこうなりそう……てかなるわ……」と、ものすごくリアルに感じられたのだ。しかも、「あ、これおれっぽい」と思わされる人物は、名を与えられた主要人物だけでなく、逃げまどう群衆の中にも見いだせた。あ、この群衆に踏まれて潰されちゃう人、おれっぽい、とか。あー、おれこうやって苦しむんだろうなあ、こうやって死ぬんだろうなあ、というのが、ありありと想像できた。これだけ自分と戦争が完全に地続きになったのは、この作品が初めてかもしれない。要するに、人間の描写力が半端ないのだ。恐ろしい普遍性。

 しかも、この作品、実は完成原稿の前段階の、構想ノートなのですよ……!!!!(動揺のあまり突然の丁寧語、すみません、、、) ちょっとここで、作品来歴について字数を費やした、日本翻訳大賞への推薦文(字数やや超過ver.)を読んでみてください!!!!

『南京 抵抗と尊厳』

阿壠:著/ 関根 謙:訳、解説

1937年の南京戦の群像を、迫真の筆力で描いたルポルタージュ形式の小説。1939年に書き上げられ、1940年の文芸協会公募において最高傑作の評を受けるも、この時代が求める戦時小説ではなかったため、出版不能となった。それは、中国軍の無策や、中国兵による中国国民の殺害、日本兵の悔悟の自殺などの描写をためらわなかった、軍人・阿壠の「中国にも日本にも肩入れしない」リアリズムの姿勢を証明するものである。しかも、戦乱の中で30万字に及ぶ原稿は失われてしまう。残されたのは執筆用ノートに書かれた14万字の断片だった。このノートは、阿壠が反逆分子として逮捕された際に没収され、12年の実刑中、極秘文書として保管されたために難を逃れた。無念にも推敲の機会を与えられなかったこの14万字のノートは、半世紀の時を経て、中国で正式出版されたが、部分的に削除され、現在もそのままである。削除された部分とは、南京陥落後、虐殺を経て、日本兵が矛盾に苦しむ描写だ。今回の2019年邦訳では、阿壠の息子の協力により、削除された部分を補完することができた。それだけでも本書の出版意義は大きいのではないだろうか。生々しい戦争の記憶と憤懣やるかたない熱情によって書かれた本稿は、完全版でないにも関わらず、群像劇として圧倒的な傑作であり、必読の書である。それだけに、失われた30万字が惜しまれてならない。

ここまで。

 よーするに推敲なしの断片だったんですよ、おれがおもしれーおもしれーと読んでいたのは!!! いや、もう、まじで、推敲なしでこれかよ!ってふつーに驚愕したよわたしは。なにこの天才……しかも……消えた30万字、さしひき16万字にいったい何が書かれていたのか……!! 本気でもったいない。最初に出版しておけば人類の宝になったのに!!!! 悔しかっただろうなー、阿壠。ぜったい悔しいよ。おれだったらめちゃくちゃ悔しい。400字とか560字とかでワイワイ言ってるくらいだし、300000字の傑作が無視されるなんて、比較にならないくらい悔しいだろうよ。なんなら推敲前の断片で出版されてる現状も悔しいだろうけど、あの部分が削られて出版されてるのも悔しいだろうな。あれがあるとないとで、深みが全然違うから。

 というのも、本編ではほとんど「日本人」が出てこない。ただひたすら、爆撃によって街が破壊されたり、中国人が肉片になったりするだけで。だから初めて日本人が喋ったシーン……中国人に扮した日本兵が農村に紛れ込み、中国語を喋って騙すシーンは、異様に恐かった。顔かたちでは、両国に差がないことを暗に示しているから。それからあと、戦車のうしろにいる歩兵として日本人が登場するけど、このときも喋らない。めちゃくちゃ計算されているんです、描写の仕方が。理解できない言葉を話す人間の集団が攻撃してくることの不気味さ、わからなさ、恐ろしさ。そしてついに南京は陥落、大虐殺が始まる。そのあとに、苦しむ日本兵の断片が差し挟まれるからこそ、戦争の非道さが際立つのに……。それに、ある中国兵の明晰さを印象づけるシーンでもあるんですよ。優れた描写なのに。もったいない、本当にもったいないよ。でも、いずれにしても、完成版はこの世にないのだ。おそらく、どれも削ってはいけない描写であっただろうに。なんていうことだ。こんなに勿体ない話があるだろうか。

 ともあれ、中国本土では読めない部分も、邦訳では読める。少なくとも、その部分が外国語(日本語)で公開されるまで、80年の歳月が必要だったのだ。数奇な運命を背負った作品である。

 

(阿壠/関根謙『南京 抵抗と尊厳』五月書房新社、2019 税別1900円)


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