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むかしがたり『さかいのひめ』

  《はじめに》

 学生時代に、幸いにも吉田敦彦氏のもとで神話について学ぶ機会を得た。氏は論文などでご指導もいただいた恩師でもある。そして、氏の講座や演習でとりあげられたハイヌウェレやうりこひめの神話にはおおいに刺激を受けた。また、その後触れた赤坂憲雄氏の『異人論序説』をはじめとする「境」「周縁」に関する研究にもずいぶんと啓発された。そんな気分の中で、なかば勢いづいて編んだ小説が、以下の『さかいのひめ』である。ぼくなりに「さかい」というものを表現してみた。いかがなものであろうか。ご感想、ご意見など賜れば幸いである。

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        むかしがたり『さかいのひめ』
                              冬野由記

 その男は医師である。
 もっとも、この時代に医師という言葉はないから、彼はむらびとたちから「かわべのぢぢ」とか「さかいのぢぢ」とか、あるいは、ただ「ぢぢさま」とか呼ばれている。「かわべのぢぢ」というのは、北の山々の向こうからまわりこんでむらの西側を流れ下る川があって、その川すじを見下ろせるなだらかな丘に、彼と彼の妻が暮らす小屋があるからである。また、西の川の、北の山から流れ下って来るあたりは急流といってよいくらいだが、ちょうどその丘から見下ろしたあたりで、いったん流れが緩やかになる。川幅も深さも、川越えにはころあいなので、外からむらにやってくる者たちや、ごくまれではあるが、むらから外へ出る者たちは、かならずそこを通ることになる。つまり、そのあたりは、むらの「境」であるので、彼は「さかいのぢぢ」と呼ばれることもあるのである。
 彼ら――ぢぢとその妻――は「むら」の一員にはちがいない。だが、「むらびと」ではない。といって「よそもの」でもない。
 ひとつには、「ぢぢ」も「ばば」も医術という特殊な技能をもって、むらびとの病や怪我の治療にあたったり、健康についての相談ごとにあずかったりすることでむらの営みに参加しているわけで、他のむらびとたちのように、日々ともに田畑を耕して暮らすわけでもなく、むらはずれの小屋で薬草を採取したり栽培したり、なにやらあやしげな実験をこころみたりしている……つまり、病や怪我がなければ、むらびとたちも、わざわざ「かわべ」あるいは「さかい」までやってくることはない。
 また、彼らは境に暮らしているわけで、そこは前述のとおり、外からむらにやってくる者たちが必ず通る道であるから、彼らは「よそもの」や「まろうど」と最初に接触する、そういう立場でもある。丘から川筋を見下ろすというのは、一面では、むらに入ってくるよそものを見張っているようなものでもある。外からやってきた者たちにとって、彼らの小屋は、川を渡ると最初に丘の上に見える「むらびと」の小屋であり、むらびとたちから見れば、西の丘に建つ「ぢぢさま」の小屋の向こうは異界であり、小屋は異界からやってくる者をいったんとどめおく関所である。
 もっとも、ぢぢさまの小屋に日々出入りしている「むらびと」もいる。今年十歳になる少年である。はやくに親を亡くして、むらびとたちに養われてきたのだが、ごく自然にぢぢさまたちとむらびとたちの間をつなぐ伝令のような役目を負うようになった。むらに病人や怪我人があったり、何か相談ごとが生じたときには「かわべの小屋」に走る。むらに来訪者があったときは「さかいの小屋」からむらおさのところに走る。頭もよかったのだろう、ぢぢさまやばばさまの仕事――薬草採取や医療――にも興味を持つようになり、今では、ときに仕事を手伝うこともあって、少年は、なかば「さかいの小屋」の住人となっている。むらびとたちも、この子がいずれ「ぢぢさま」の仕事を受け継ぐのだろうと、これもごく自然に考えていて、最近では少年のことを「さかいのぼう」などと呼んでいる。実のところ、そのようにして「さかい」の仕事は、もうずいぶんと昔から受け継がれてきたらしいのである。

 さて、ある昼下がり、ぼうが小屋に駆け込んできた。
 川上から人が流れてきたというのである。川べりで、ばばと一緒に採取した薬草を仕分け、洗っていたところ、川上から人が流されてきて、ちょうどさかいのあたりが浅瀬になっているのでひっかかった。なんとか岸辺にあげたが、ばばとぼうだけでは小屋まで連れてゆかれないので、急ぎ、ぢぢを呼びにきたのだと。
 小屋に運び込まれたのは若い女だった。まだあどけなさを残す面差。しかし衰弱していながら、あごから胸もとにかけてのふっくらとした豊かさは成熟をひそませている。ばばは、ひとめで少女が身重であることをみとめた。あとひとつきほどで月が満ちるはずだと。
 それにしても、どれほど川を流されてきたのか。おそらく、川のはるか上流、北の山々の向こうの遠くのむらから流されてきたものとみえる。そういえば、一昨日あたり、川に、黒く焦げた枝や葉が流されてきた。北のほうで山火事でもあったかと思われたが。
 少女の身体はすっかり冷え切っており、息も弱く、もはや自分の命を保つのが精いっぱいで、子を産む力など残っていない。いや、おなかの子にしても、このままでは母親のおなかの中で死んでしまうだろう。
 彼らは決断を迫られた。少女の意思を確かめねばならない。ぢぢは、少女の耳元に語りかけた。

―― このままでは、おまえさまも、ややも助からぬ。
   ややを助ければ、おまえさまは助からぬ。
   おまえさまを助ければ、ややは助からぬ。

 少女は、ゆっくりと目を開けた。その目が、かたわらでふるえているぼうの瞳を見つけた。少女はほほえみ、ぼうの瞳をとらえたまま、こたえた。

―― ややを。

 そして目を閉じた。

 手術が行われた。
 母の血の海の中で、赤子は産声をあげた。
 女の子だった。
 母親は、小屋の近くに丁寧に埋葬された。
 女の子はぢぢとばば、そしてぼうに見守られて成長した。
 むらびとたちは、いつしか、その美しい娘を「さかいのひめ」と呼ぶようになった。
 そして、若者に成長したぼうは「さかいのわか」と呼ばれている。

 ぢぢは死に、ばばも逝こうとしている。
 病を癒し、むらびとたちの健やかな暮らしを護ってきたさかいの者といえども、定められた命の炎を徒に接ぐ術を持つわけではない。また、そのような術を求めることは戒められてもきた。この世の命の嵩(かさ)は定められており、それらをさばくことは人の手に余る業だから。ただ、人は、命を接ぐことはかなわなくとも、まっとうした命の志を継ぐことはできる。
 しかし、ばばを看取りながら、旅立つばばを、わかは心安んじて見送ることができない。

 ―― ばば。逝くな。
    俺は、ぢぢやばばのわざを、まだ学び終えていない。
    俺は、まだまだ未熟すぎる。
    俺は、まだ、ぢぢとばばの後を継ぐことができぬ。

 ばばは言う。

 ―― ひめがおる。
    ひめの力が、おまえを助ける。
    案ずることはない。

 じっさい、ひめ ―― この異界からもたらされた娘 ―― には不可思議な力があった。
 ひめが、むらびとたちを、直に癒したことは一度もない。
 しかし、たとえば、ひめは、ごく幼いころから野辺に出て、あるいは森に入り、ぢぢやばばでさえ探すのに難儀するような薬草を摘んで来た。また、ひめの周りでは、木々はその枝をぞんぶんに張り、草ぐさは生い茂り、咲き乱れる花々はいつでもひめをとり囲んだ。作物の出来が悪かったり、病に冒されたりしたときには、ひめは里に出て田畑を癒した。そのおかげで、ここ幾年の間、むらは不作や飢饉に悩まされることがなかった。
 ひめは、木々や草花を癒す。
 ひめは、田畑の実りを護る。

 ―― ひめの力には、もしかしたら、
 ぢぢやわしのわざをはるかに超える値があるやもしれぬ。
 ひめとともに、さかいのわざを継げ。

 ばばは旅立った。
 そして、ばばが言い遺したとおり、わかとひめは夫婦(めおと)となった。

 ふたりが夫婦となることを、むらびとたちは、ごく自然に受けとめた。異存があるはずもない。いくら美しいからといって、異界から訪れた、母の腹を裂いて産まれ出た異能者を、嫁に迎えたいというむらびとはいない。
 わかは、もともとはむらびとである。しかし、さかいの小屋に暮らし、ぢぢとばば、そしてひめと、同じものを食い、おなじ役目にあずかってきた以上、むらびとたちから見れば、すでにさかいの住人である。それに、わかにとっても、ひめは、ともに育った家族同然の幼馴染である。
 そして、ひめを見守るわかの瞳をみつけて、ひめが屈託のない美しいほほえみを見せるとき、その笑顔があの日のひめの母の顔と重なり、わかは ―― あの日、自分はひめにとらわれたのかもしれない。いや、自分は、ひめを託されたのだ。 ―― と思う。
 わかとひめは、あらたな「さかいの者」として、むらを癒し続けた。
 やがて、奇妙なことが生じた。はじめは、なんということもない出来事だったのだが……。

 ひめは、日々、野や山にあそび、そうでないときはむらびとに請われ、里に出て田畑を癒したものだった。ひめが、日がな小屋に籠るなどということはなかったのである。しかし、わかと夫婦になってから、ときおり、ほんの二日か三日ではあるが、ひめは小屋の奥に閉じ籠るようになった。そして、ひめが奥の間を出たときには、見事な錦(にしき)が織り上がっている。
 年に二度ほど、むらに立ち寄る商人(あきんど)が、この錦に目を留めた。そして高い値でそれらを引き取っていった。すると、どこから聞きつけて来たものか、ほかの商人たちもむらを訪れるようになり、この錦を買い取ってゆく。
 困ったことになった。
 むらを訪れる商人たちは、まず、さかいの小屋に立ち寄る。さかいの小屋にとめ置かれた商人は、知らせを受けてやってきたむらびとたちに迎えられ、かれらに案内されてむらに入る。それが、これまで幾年ものあいだ繰り返されてきた、むらのならいだった。
 ところが、むらに入ったものの、さかいの小屋で仕入れた錦にならぶほどの産物が無いことを知った商人たちは、しだいにむらに入ることをしなくなった。穀物にしても、かさばるわりには、そう高い値で売れるわけではない。しかし、さかいの錦は、都にはこべば、まちがいなく高い値で売れる。商人たちは、さかいの小屋で錦を手に入れ、すぐに引き返すようになってしまったのだ。
 わかもひめも、商人がもたらした金や珍物を独り占めにするようなことはせず、それらのことごとくを、むらの役に立てた。もとより「さかいの者」とは、そういうものなのである。
 しかし、むらびとたちは、なかば尊びつつ遠ざけてきた「さかいの者たち」に、はじめて憎しみに似た感情を抱くようになった。

 むらびとたちは、わかに訊ねた。

 ―― あの見事な錦は、どのようにしたら織ることができるのか。

 しかし、わかには答えようがない。
 ひめが奥の間に籠っている間、そこに立ち入ることを、わかは許されていない。
 しかし、そんなわかの答えに、むらびとたちは納得しなかった。

 ―― そもそも、さかいの者は、むらのために力を尽くすものではないか。

 われらは、金や珍物を欲しておるのではない。われらは、さかいの者どもに、ほどこされることなんぞ望んではおらぬ。美しい糸やよい織りかたの工夫がついたのなら、その技をむらにもたらすのが、さかいの者の役目ではないか。

 里の外にあって、よいものは入れ、あしきものはふせぎ、里を護ること。むらの内にあって、ひとびとの平安で豊かな暮らしを保つこと。それがさかいの者の役割であり、それを果たしうる力ゆえに、かれらは、なかば畏れられ、なかば尊ばれ、なかば忌まれてきた。
 しかし、今、商人たちは里に入らない。
 豊かな暮らしの種は、さかいの小屋に隠匿されたままである。

 ある新月の夜、ひとりの男が、里を出てさかいの丘に向かった。
 男は、錦の秘密を何としても探り出さなければならないと思い決めたのである。
 それは義憤だったかもしれないし、たんなる嫉妬だったかもしれないが、いずれにせよ、男はどうにも我慢がならなくなった。そして、畏れ、忌むべきさかいの地に、こともあろうに、月明かりを頼ることもできない闇夜を選んで、近づこうとしている。
 この夜を選んだのは、ひめが小屋に籠るのが、どうやら決まって新月の夜前後の数日らしいと聞きつけたからである。そして、その数日の間、わかは薬草の採取のため遠地に出かけることが多いらしい。
 かすかな星の灯りだけを頼りに、男は丘を這いのぼり、小屋にたどり着き、忍び込んだ。以前、むらを訪れた商人を迎えるために、むらおさに随って幾度か小屋を訪れたことがあるから、小屋の様子はだいたいわかっている。奥の間というが、引き戸一枚に隔てられているだけだ。
 引き戸の奥に、たしかに人の気配がする。
 男は、そっと引き戸に近づき、ほんの少しだけ戸を引いて、中の様子をうかがった。
 薄明かりの中に、横たわった女の姿がかすかに見えた。ひめだ。

 ひめは、糸を撚っているでもなく、機を織っている様子もない。部屋のなかほどに横になっている。
 男は、ひめがもう仕事を終えて寝てしまったのかと、すこしがっかりするとともに安堵した。家を出るときには、なにやら怒りに似た思いに勢いづいて、このような夜更けに、ひとりで、さかいの小屋に忍び込んでしまったが、小屋に入ったとたんに畏れと後悔を感じていたのである。男は、このまま小屋を出て里に引き返そうと、引き戸に手をかけた。
 しかし、そのとき、男は何か異様な気配を感じ、思わず目を凝らした。
ひめの息遣いが聞こえた。荒い息に、うめくような声が混じっている。とても寝息をたてているとは思えない。様子がおかしい。
 突然、闇の中に沈んでいたひめの影がおおきくうねったように見えた。ひめが喘いだ。

 男は見た。
 それは、男の想念の限界をはるかに超えていた。
 息をのみ、その場に腰を落とした男は、身じろぎひとつできなかった。やがて、全身が瘧のように震えた。なんとか震える手で引き戸を閉め、小屋を這い出た。風のない夜の闇にさえ男は安堵し、ようやく息を吸った。それでも立ち上がれなかった。這いながら、さかいの丘を下り、なんとか里にたどり着いたときは、すでに東の空が白み始めていた。
 男は家には戻らず、そのまま、むらおさの屋敷の門を叩いた。使いが村を走り、明け方でありながら、寄り合いが召集された。
 男はむらびとたちに告げた。

 ―― ひめは、錦を織ってなどいない。
    あの女は人ではない。あれは人外のものだ。
    おれは見た。
    あれは錦を……錦を産み落としていたのだ。
    おれは、たしかに見た。
    あれは、人ではない。

 寄り合いは、長くはかからなかった。

 ―― 今宵のうちに、ことを決すべし。

 その夜、松明と得物を手にしたむらびとたちは、里を出てさかいの小屋を囲んだ。
 わかが戻ってくるのは明日あたりだ。今夜のうちに……。
 前夜と同じ月のない闇夜の丘を、強い西風が駆け抜け、松明が燃え上がった。

 わかは、このところ、ひめが奥の間にこもる新月の前後に、薬草の採取にでかけることにしていた。さかいの小屋を出て、西の川沿いに川上に向かい、ちょうど里を迂回するように北の山岳地帯に入る。西から入る道筋には、むらの近辺ではなかなか手に入らない珍しい薬草が手に入るからである。
 山岳地帯の西の一帯は、里人たちが炭焼きや山菜の採取のために入るよくととのえられた南麓の森とはずいぶんと異なる相をしている。そこは、人の手がほとんど入っていない豊かな原生林で、さまざまな野生の棲みかであり、おさえきれない生命の衝動にはちきれそうになっている大地の胎(はら)である。
 しかし、今回の旅で、わかは異変を感じた。命に膨らみきっているはずの山が、妙にしぼんでいるように思われた。山に、いつでも湛えられていたはずの息吹が感じられない。現に、いつもなら何なく見つけることのできる薬草が見つからない。異変を感じるとともに、胸騒ぎをおぼえたわかは、予定を切り上げて急ぎ帰路に就くことにした。
 急いだといっても、かなり深く山に入っていたこともあり、さかいの小屋まであと数刻ほどというあたりまで戻った頃には、すでにすっかり日が暮れていた。川筋で一息入れて、ふと川下のほうに目をやったわかは、何かが異様に明るく南の空を染めているのを見た。
 さかいの丘で何か忌まわしいことが起きている。
 そう感じたわかは家路を急いだ。

 さかいの丘にたどり着いたわかが目にしたのは、いまだにくすぶり続ける焼け落ちた小屋の残骸。踏み荒らされたあたりの様子や、そこここに投げ捨てられた松明と得物が、小屋を焼いたのが他ならぬむらびとたちであることを示している。

 ―― いったいなぜ?
    何があった?

 わかは、まだかすかに煙をのぼらせている小屋の焼け跡に踏み行って、焦げて倒れた柱をどけ、燃え残った板をはがし、ひめを捜した。

 ―― ひめは? ひめは、どこだ? ひめは、無事か?

 ふと手をとめたわかの耳に、かすかに、細いすすり泣く声が聞こえた。
 ひめだ。
 わかは、すすり泣く声をたよりに、小屋があった丘から川に向かって降りたあたりの草むらに駆け込んだ。
 草むらに、ひめは、ひっそりとその傷ついた身体を横たえて泣いていた。

 ひめは、着物を裂かれ、その身体のいたるところに、ひどく殴打された生々しい痕が残っている。手足には火傷も負っていた。
 わかには、理由は分からないが、ひめの身とさかいの小屋に何が起こったかはすぐにわかった。むらびとたちが、小屋とひめを襲ったに違いない。そして、ひめの身体を抱き起こしたわかは、むらびとたちの暴力が、ひめの身体の表面だけでなく、その内奥にまで、とりかえしのつかない傷みをもたらしていることを知った。ひめの命は尽きようとしている。わかは、ひめをなんとか治療しようと思った。しかし、小屋は焼き払われ、貴重な薬草は採取できぬまま帰ってきた。このままでは、手の施しようがない。
 わかは、ひめを背負った。里へ向かうわけにはいかない。ほかならぬむらびとたちが、ひめの命を奪おうとしたのだ。北の山には、どうしたわけか薬草がない。わかは川筋に降りて、足を南に向けた。川に沿って川下のほうに向かえば、もしかしたら……。
 ところが、わかの背で、ひめが小さくささやいた。

 ―― 北へ。

 北? 北の山々もまた、命が尽きかけている。あそこには、ひめの命を救う手がかりはない。躊躇うわかに、ふたたび小さく、しかしつよく、ひめが言った。

 ―― 北へ。

 わかは、ひめの導きを信じ、川に沿って北へ向かうことにした。
 月のない夜、星灯りを頼りに、風のない静かな夜道、ひめを案じて家路を急いだ道を、今は傷つき命の尽きようとしているひめを背負って、ふたたび北の山岳地帯に向かって歩いた。
 抱えたひめの身体のわずかな温もりと、耳元に感じるひめのかすかな息遣いだけを支えに、わかは憑かれたように、ただただ歩いた。
 東の空がわずかに白みはじめた頃には、すでにいくつもの峠を越えて、深い山懐に入っていた。やがて、小さくなだらかな丘にさしかかったとき、ひめの身体が急に重くなったように感じた。ひめの温もりも急速に遠のいていく。わかはうろたえ、背中のひめに声をかけた。すると、ひめがかすかにほほえんだような気がして、声が聞こえた。

 ―― ここに。

 わかは、ひめをそっと下して、横たえた。
 なんと荒れた丘。こんなところで、ひめに何をしてやれるというのだろう。

 夜明けまで、あと二刻ほどだろうか。東の空がほのかに白んできたとはいえ、頭上は夜空である。
 ほの暗い黎明の丘に横たえたひめの命が、おそらく夜明けまでもたないであろうことは、医術に長けたわかにははっきりとわかる。
 ひめがわかを見つめる。
 その眼は、むかし、ぼうと呼ばれていた幼いわかの瞳をとらえた少女の眼と同じように、ほほえんでいる。
 ひめが何かをささやいた。
 わかは、ひめの口に耳を寄せた。

 ひめの口から漏れ出た言葉は、ひめの最期の頼み ――遺言といってよいものだった。しかし、その頼みは受け容れがたいおそろしいものだった。
 うろたえるわかの瞳を、ひめは逃さない。

 ―― 夜明けまでに。

 わかが、狂おしい思いで肯いたとき、ひめの命はすでに尽きていた。だが、すでに骸でありながら、ひめのあごから胸もとにかけての、このふっくらとした豊かさは何だろう。わかは、不思議な思いでひめの亡骸を見つめながら、たった今、ひめを失ったことが信じられずにいる。
 しかし、かなしんでいる刻はない。すぐにも約束を果たさねばならない。夜明けまでに。

 わかは、ひめの亡骸をそっと抱きしめた後、仕事にかかった。
 ひめの着物を脱がす。まだ生々しいたくさんの痣は、むらびとたちの殴打の痕。しかし、薄闇に白く映えるひめの骸は美しく、どこかに命の豊かさをひそませているようにさえ思えた。そのゆたかで、いまだにやわらかな身体に、わかは使いなれた小刀を入れる。そして、ひめの身体をいくつもの断片に切り分けてゆく。常識では理解できないおぞましい、凄惨な行為に見える。しかし、淡々と、手際よく仕事をすすめるわかの姿は清冽で、あまりに静かな表情は高潔にさえ見えた。
 ひめとの約束。ひめの最期の頼み。

 ―― わたしは逝きます。わたしが逝ったら……
    わたしの身体を、これから言うとおりに切り分けてください。
    そして、これから言うとおりの場所に埋めてください。
    あなたにしかできないことだから、お願いするのです。

 言われたとおりに、ひめの身体を切り分けたわかは、愛するひめの身体だったかけらを、言われたとおりの場所に、正確に埋めた。身体を正確に切り分けること、方角を定め、距を測ること。ひめの言うとおり、わかにしかできないこと。
 すべてを終えた時、東の空に陽が昇った。

 ―― 間に合った。

 すべてを終え、その場に座り込んだわかには、何をする気力も残ってはいない。わかは、ただあたりを見回した。

 ―― この丘のいたるところに、この手で植えたひめが眠っている。

 朝日を浴びながら、わかはその場に突っ伏した。
 丘を抱きしめたとき、わかは泣いた。そして、いつのまにか深いねむりに落ちた。

 何かの声がする。
 誰かがわかを呼んでいる。

 眼を覚ましたわかが見たのは、荒れ果てていたはずの丘を覆うおびただしい草木。
 西の空が茜色に染まっている。どうやら、昼の間じゅう、わかはねむっていたらしい。そして、その間に、荒れた台地は、緑なす丘に変貌していた。

 わかの耳は、元気な赤子の泣き声をとらえた。
 かたわらの草むらに、ほのぐらい天に向かって泣く赤子。
 赤子を抱きあげたわかが西空を望むと、沈んだばかりの太陽を追うように上弦の三日月が浮かんでいる。その細くやわらかな月影は、赤子にほほえみかけているように見えた。

 荒れた不毛の山岳地帯に、いつしか深い森が広がり、そのふもとには豊かな大地が広がっていた。噂を聞きつけて、あちらこちらから人々が集まり、ふもとの大地は実り多き耕作地となり里ができた。
 ここに里ができるよりもっと昔に、この森と大地を拓いた父娘がいたと、むらびとたちは語り伝える。今も、森のなかほどの丘の上の小屋に、森を護り、里人の暮らしを支える者たちが住んでいる。里人たちは、彼らをその父娘の――森と大地を拓いた父娘の子孫とみなし「もりびと」とも「もりのぬし」とも呼んで尊んでいる。

月の森。月の里。
その森と里は、そう呼ばれている。


                                 完

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