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「聴くこと」について

最近、鷲田清一氏の書籍を読みあさっています。この方、「臨床哲学」をしている学者さんなのですが、新聞や雑誌のコラム欄などにも多数かいていらっしゃったようです。私は最近知って、嵌まっています。易しい言葉で分かりやすい語り口調の文体なのですが、やはり哲学者が綴る文の意味は、すぐに理解できなく、しばし考え込んでしまいます。なのにずっと読んでしまう惹かれるものがあるのです。

「じぶん・この不思議な存在」という新書の中で、下記の件に、考え込みました。

じぶんとはなにかと問うて、じぶんが所有しているもの、他人になくてじぶんだけにあるものに求めても、おそらくじぶんは見えてこない。(中略)むしろわたしは「だれ」か、つまりだれにとっての特定の他者でありえているかというふうに、問うべきなのだと。なにがリアルなシナリオであるかは他者との関わりの中でしかみえてこない。

じぶんを「他者の他者」であると考えてはどうかと、著者は論じています。じぶんを少しでも多く知ろうと、裡を見つめ続けてきた私にとって、これはあり得ない新種の花を見つけたような気持ちにさせられ、これまた、考え込んでしまう訳です。気になることばが、たくさん綴られているのですから。

そして、見出しの画像の書籍「臨床とことば」川合隼雄×鷲田清一 という文庫に出会いました。「聴くこと」の力、「生きる力」の源、等について日々臨床ごととして、クライアント、あるいは学生と対話しているお二人の語り合いなので、もうそれは重みと深みに満ちたとでも言えば良いのでしょうか、なんと表現したらいいのか、沁みてくるものでした。

上手く説明はできませんので、私が感じた部分を、ご紹介して、後は皆さんのご興味にお任せするしかないようです。

人間というのはだれかに見られている、感心を持たれていることで、はじめて逆に一人になれるという面があると思う。でもむしろ、それ以上に大事なのは、他人に感心が持てるということ。

他人に感心が持てることは、食べたいと結びつく生命力と記してあります。食べたいでも寝たいでも、したい事があるって、生きる力だというのは、実感としてありました。

私たちは待つことに焦れて、ついことばを迎えにゆく。「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」というふうに。語りにくいことを呑み込みかけていた時に、スラスラしたことばを向けられれば誰しもそれに飛びついてしまう。(中略)とつとつと語りはじめたその能動性の芽が摘まれてしまう。ことばを待って受け取るはずの者の、その前のめりの聞き方が、やっと出掛けたことばを逸らせてしますのである。

じぶんの痛みについて、辛くても語ろうとすることは、その痛みとのじぶんの関わりを変えようとし始めていることで、痛みの中に陥没していたじぶんに距離をおこうとし始めることなのだと語られていました。だから理解し合えることより、自ら語るという行為に意味があるのでしょうね。それを奪ってしまうこと…考えたら恐ろしくなりました。

相談にこられる人は、それなりの「秩序」つまり人生観をもっている。それを「カキマゼ」て、そこに新しいものが生まれてくるのを助けるのが、我々心理療法家の役割と言える。ただ面白いのは、我々は自らの力キケマゼではなく、「待つ」ことによって、カキマゼが自然に生まれるのに頼る形をとる。(河合隼雄さんのことば)

このことばを得て、私の気持ちが丁度よい場所に納まった気がしました。

最後に、距離感と触覚のことが書かれていたところが、印象に残っていて書きたかったのですが、上手く書けなくって断念。そーっと触れようとするその瞬間が、一番触覚が働く時で、不安神経症の人にとってすごく怖い瞬間だそうです。がばっとハグしちゃうほうが安心なんだそうです。ことばにおいても時に、ガバっていうのもありだということなんだと思いました。と…、書いたものの…。

この本は、久しぶりに、私にとって、ずーっと持っていて、時々読みたいって思う本だったので、忘備録として記しました。

「聴くこと」の力、「待つこと」の力に、不思議な威力あり!と改めて確信する1冊でした。


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