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適応的行動だっただけかな

いい天気だし、穏やかに一日を過ごせた。

でも夕方になってから来た連絡でウワーとなり、喪服を探すなどした。

連絡が来て、ちょっとの間文面が上手く入らなくて、「あ、喪服?」と思って探し始めた時、自分がとても人でなしのように感じた。

いや、必要な行動ではあるんだけど、なんとなくめんどくささを感じてるのも確かで、なんか「うわ、こいつ最悪だな……」って思った。

探しながら「どうして急に……死因は?」みたいな外側の情報ばかり考えてしまったのも、なんだか人でなしみたいで嫌だった。

ようやく思い出に辿り着いて、「タバコをバカバカ吸ってたなぁ」とか「家でご飯食べさせてもらったこともあったな」とか「落ちてる時に眉を顰めて笑う人だったな」とか考えて、また外側の情報に戻っていく。内側の衝撃を言語化出来ないから、外側の情報ばかり考えていたのかもしれない、と今ここに書きながら思った。

働いてから連絡取ったりとか全然していなかったんだけど、もう居なくなってしまったのだと考えると途端に惜しくなる。自分勝手だ。

そしてそんなことも通り越していつも通りの流れに乗っている私は、やはり人でなしなんだと思う。悲しい文面が送られてきたから、私も悲しいモードになってきてるんだと思う。社会に適応するために。

だってそのあとツイート見ながら笑ったりしたしね。私なんて、その程度のものだね。

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