見出し画像

僕らはラ・サール・タイムズ編集部(自己を見つめる連載⑦)

[冒頭はおそらく高校2年生の時の写真]
【2020年9月28日配信】
 前回、中学でロックと友だちが人生を救ってくれたことを振り返りました。生きる力を取り戻した僕が高校で出会ったのが「記者の仕事」です。私の人生を決定づけた新聞部の体験を記します。
(本記事は、9月27日に配信した「ロックと友だちが人生を救う」に続く、連載7回目です)

《高校進学時の“格差”が生んだ部活の重要性》

 その前にラ・サール学園について余談を一つ。前回、「中高一貫のラ・サールでは高校受験がないので、中学3年生も受験勉強の必要がなく緩みきっています」と書きました。これはあくまで中学からラ・サールに入った「中学進学組」の話です。高校入試を受けて高校から入ってきた「高校入学組」は厳しい受験勉強をくぐり抜けているので、両者には比較にならないほどの学力差があり、同じクラスで教えることが困難でした。
 一方でラ・サールは生徒に医師の息子がかなりいて、医学部進学校的な側面が強かったこともあり、数学教育に大きな比重をかけていました。僕らは中学2年生までに通常の中学3年分の数学の授業を終え、中学3年生で通常の高校1年の「数Ⅰ」を教わっていました。
 学力は低いのに授業の進度は先を行っている。そういういびつな状況があったので、中学進学組と高校入学組を同じクラスで教えるわけにはいきません。高1時のクラス編成は中学進学組(約150人)がA、B、C組、高校入学組(約100人)がD、E組と分かれていました。僕らは「ABC」、高校入学の生徒は「DE」と呼ばれ、ある種の壁がありました。定期テストでは常にDEが僕らの成績を圧倒しました。この学力差は1年では埋まらず、2年生になってもABCとDEは分かれたままでした。以上はすべて僕が在学した1975~81年(昭和50~56年)当時の話です。
 このように2年間ずっとクラスが分かれているので、ABCとDEの垣根を越えて友人ができる機会は限られていました。その大切な機会の一つが「部活」。部活はABCもDEもなく一つです。だから高校で部活に入る意味合いは友人関係を広げる意味でも極めて大きかったのです。

《“先輩”のイメージが塗り替えられた》

 中学では部活に入っていなかった僕も、高校では入ろうと考えました。でも、これもアスペっ子の特徴の一つで、体を動かすのが苦手を通り越して不器用だったので、運動部に入ろうとは思いませんでした。文化部もいろいろありますが、僕が選んだのは新聞部でした。
 なぜ新聞部を選んだんでしょう? 今となってはもはや忘却の彼方で、きっかけは覚えていません。でも、小さい頃から本の大好きな子だったので、文章を読んだり書いたりするのが好きだったからかもしれません。ネットもビデオもない昭和のあの頃、オタク少年がハマりやすいのが本でした。アスペでオタクな僕は新聞部に入りました。
 部活と言えば「先輩」がつきものです。上下関係の秩序を部活で教わったという方は多いのではないでしょうか? 新聞部にも先輩はいました。1学年上の2年生。3年生は部活を引退するのでいません。
 先輩と言えば、僕は中学の寮での体験を思い出します。性被害のことは“忘れて”も、いじめられた記憶は残っています。でも、新聞部の先輩たちはまったく違いました。愉快で面白くていろんなことを教えてくれる。言葉の本来の意味での「先輩」でした。
 こうして僕の中で「先輩」という言葉につきまとう負のイメージが薄れていって、前向きなイメージに塗り替えられていきました。これも長い人生の上で大きな意味のあることでした。
 新聞部の先輩の一人がいつも自分のことを「わし」と言っていました。だから僕も自分を「わし」と言っていた時期があったような気がします。ちょっとでも大人に近づきたい高校生の「背伸び」が感じられます。

《境治と二人三脚で新聞作り》

 部活で先輩と並び、いや、先輩以上に大切なのが仲間。つまり同学年の友人です。新聞部で僕が出会った同学年の仲間の中でも、最も親しくつるんだのが境治でした。彼はABCですから中学でも同じ学校でした。でも境は学園内の中学生の寮(中寮と呼びました)、僕は学園外のカトリック教会寮(通称カト寮)でしたから、ほとんど話をしたこともなかったと思います。
 僕らは新聞部で初めて会話を交わしたはずです。でも不思議なことに、新聞部で1年生の時の境との思い出がまるでないのです。どうしてなんだろう? 不思議です。
 でも2年生になると俄然、鮮やかな記憶が次々に浮かびます。新聞部で最上級生となった僕らが学内新聞の制作を取り仕切ったからだと思います。その名を「ラ・サール・タイムズ」と言いました。
 1979年度(昭和54年度)のラ・サール・タイムズは、編集長が境治、僕が副編集長。そして編集部員は…気が向いた時に記事を書いてくれる「幽霊部員」的な部員が何人かいたことは間違いありません。でも普段の新聞作り、つまり編集方針を立て、取材をし、記事を書き、紙面をレイアウトして構成し、印刷前に校正する。そういう一連の作業を日常的にこなしていたのは、間違いなく境と僕でした。
 境と2人、印刷会社で試し刷りの紙に向かって手分けして必死に校正作業をした日々が懐かしい。あの年、ラ・サール・タイムズは僕らが作った。僕らがラ・サール・タイムズ編集部だった。だから境との絆が深まり、鮮明な記憶がいくつも残っているのだと思います。

5955再修正

[ラ・サール・タイムズ編集部時代の境治と僕。左手を固く結んでいる]

《子どもにはほめられる経験が必要》

 こんな思い出があります。ある日、境が僕に話しかけてきました。
「相澤、朝日にこんな記事が出ているんだよ。読んだか?」
 当時、朝日新聞が有名進学校の特集を連載していたように記憶しています。その中でラ・サールを取り上げたのですが、記事を読むと、なるほど、境の考えがよくわかりました。典型的な思い込みと予断で決めつけたような内容だったのです。
「これはひどいね。よし、筆誅を加えようか」
 僕は次号のラ・サール・タイムズのコラム記事で朝日の記事を詳細に分析し徹底批判しました。とは言っても、しょせん高校の学内紙ですから当の朝日新聞の記者さんが目にしたとは思えません。でも、たとえ自己満足であっても我が校の生徒たちに憤りを伝えたかったのです。
 その後、境がまた僕に話しかけてきました。
「相澤、あの記事さあ、この前オヤジに見せたら『高校生にしてはよく書けている』とほめてたよ」
 福岡にいた境の父が、ラ・サール・タイムズの記事を読んで評価してくれたと言うのです。境はこのことを覚えていないそうです。ちょっと伝えたというだけの気持ちだったでしょう。でも僕にとっては大きな意味がありました。
 僕は中学時代に誰かにほめてもらったことがほとんどありません。ほめられるようなことが何もなかった。だから他人にほめてもらうことがすごくうれしかった。特に、自分の親以外の「大人」にほめてもらったということに大きな意味がありました。大人に認められたことで、大人に一歩近づいた気がしました。
 中学時代、何も得意なことがなく、先輩にいじめられ、深く傷つく事件も起きて、自己評価が著しく低下していた僕。そんな僕が高校で新聞部に入り、ようやく自己評価を高める経験を重ねることで、次第に自信を取り戻していったんだろうと、今改めて当時を振り返って思います。
 だから思うんです。人はほめてもらうこと、評価してもらう経験が必要なんだ。大人が子どもをどんなにほめたって、ほめすぎることはないはずだって。すべての大人が、親が、教師が、教育者が、子どもと日常的に接する大人が、子どもたちをほめてほめてほめぬいてあげてほしいと願います。それだけでこの世の諸問題の多くが解決しそうな気がします。
 もっとも私自身、それを実践できているとは言えませんが。

《忘れえぬボートピープルの取材》

 新聞部の取材で忘れられない思い出をご紹介します。当時、国際的に大きな問題になっていたボートピープルの取材です。
 1975年、北ベトナムの攻勢でサイゴンが陥落し、アメリカの支援を受けた南ベトナム政権が崩壊。ベトナム共産党のもとで全土が統一されました。冷戦期を象徴する大事件の一つです。しばらくすると、南ベトナム側の人々が相次いで国外脱出を図るようになります。
 小舟に乗り込んで大勢の人が南シナ海へと乗り出しました。運良く他国にたどりつくこともありましたが、海の藻屑となって多くの犠牲者を出すケースも相次ぎました。これが当時「ボートピープル」と呼ばれて大きな人道問題、国際問題になりました。
 そんなボートピープルが、日本本土の最南端、鹿児島にたどり着き、カトリック系の団体の保護を受けているという話が聞こえてきました。こんなビッグなネタを放っておく手はありません。境と僕は2人で取材に向かいました。
 取材は片言の英語で行いました。どんな話を聞いたのか、今となってはあまり覚えていませんが、一つだけはっきり記憶に残っていることがあります。統一ベトナム国家の政府について尋ねた時、彼らの一人が短い言葉で答えたのです。「Hard Type Government(厳しい政府)」
 これを覚えているのは理由があります。ラ・サール・タイムズに記事を掲載する際、1行の文字数の関係で「Government」という単語を一つながりで表記できず、途中で区切らなければなりませんでした。その時、「音節で正しく区切らないと○○(英語の教師)に笑いものにされるよ」と境と会話を交わし、多少無理してGovernとmentに区切ったことを覚えているからです。
 …いかにも“いけ好かない”エピソードで申し訳ありません。でも、この取材が「忘れられない思い出」になったのは、もちろんこれが理由ではありません。続きがあるのです。

《事実を伝える大切さを知る》

 当時、新聞部同士で他校との交流がありました。僕らは男子校ですが、公立高校は共学で、新聞部にはなぜか女子が多かった印象があります。だから他校の新聞部との交流会はとても魅力的でした。
 交流会では互いに発行している学内新聞を交換し、話題の種にします。ある学校との交流会で、ボートピープルの記事を掲載したラ・サール・タイムズを渡した時、相手の部員(たしか男子)がこんな感想を漏らしたのです。
「よく、こんな政治的な話題を記事にできましたねえ。うちの高校では絶対に無理です」
 その時、僕が思ったのは「これって政治的?」ということです。
 あの頃、僕らは学生運動なんて全然ピンときませんでしたが、教師にとっては10年足らず前まで学内で盛んに燃えさかっていた話で、高校でもだいぶ荒れたことがあると聞いています。だから教師たちは生徒たちの「政治的言動」に過敏になっていたのでしょう。
 でもボートピープルの記事は、その時地元鹿児島であったことを事実として伝え、たどり着いた人々の言葉を記事にしただけですから、僕には「政治的」とは思えませんでした。
 「政治的」というのは政治について論評することだろう。もちろん「政治的」だから書かせないという方針が正しいとも思いませんが、少なくともこの記事は政治的じゃないだろうと。
 報道は、取材した事実を伝えることがまず原点にあります。報じた事実を踏まえて、その出来事をどう評価するかという次の話になります。事実を大切にしないと評価も誤ります。何が真実で、何が重要で、何が問題なのかが見えなくなります。まさにそういうことが起きたのが森友事件だと、今強く感じています。
 この時のボートピープルの取材は、僕にとって忘れられない出来事になりました。我が新聞部経験のハイライトです。

《メディア酔?談 いよいよ再始動》

 新聞部について語り始めると思い出が尽きません。そこには常に新聞部仲間、境治の姿があります。私がNHKを辞めた後、境に誘われて「メディア酔談」というユーチューブ配信を始め、これまで続いてきたのは、そういう背景があるのです。
 そのメディア酔談は、8月25日に私が酒で大失態をしでかした後、「自粛」状態となっていました。が、お待たせしました。ついに装いも新たに再始動します。きょう28日未明、境がnoteで告知しました。
【10月9日、配信再開!メディア酔談だけど酔談じゃない?】

https://note.com/sakaiosamu/n/n3402219fc9de

 酔談だけど酔談じゃない? その謎解きは10月9日(金)20時からの配信をご覧下さい。
 ロック、友情、酒、アスペ、うつ、そして記者の仕事。私の人生を彩るものが出そろいました。自己を見つめる連載はまだまだ続きます。次回は新聞部の続きか? 他の話か? 現在、考え中です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?