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麦星や鹿鳴館の煌々と

ごきげんよう。
本日6月12日は日比谷にあります鹿鳴館にて「バザー」と言うものが本邦で初めて開催された日だそうでしてよ。

明治17年、大山巌大将の奥さま捨松公爵夫人の呼びかけで開かれましたチャリティーバザーはその目新しさに大変話題を呼びまして、この収益金によって後に看護婦のための學校が建てられましたわ。

そもそもなぜ鹿鳴館でバザーが開かれたのか申しますと「鹿鳴館の花」と呼ばれました捨松公爵夫人その人の発案なのです。
当時、本邦に「看護婦の學校が無い」ということに思い至った夫人が、その設立費用を集めようとしたのがきっかけでして、賛同した名流夫人の方々が店番をしたりお手伝いに集まりましてその悲願を達成したそうですわ。

「バザー」と聞きますとわたくしは學校や町の小さな行事を想像してしまいますけれども、鹿鳴館のそれは全く別世界でしたようで――、
1万人以上の来場者に売上が1萬6千円――(これは女學校が1つ2つ立ってしまうような大変な金額なのです)と記録が残っておりますわ。

そしてその店番が伊藤博文さまの奥さまでしたり、お客さまがお歴々の方々でしたり色々と「バザー」という言葉の想像からはかけ離れた世界が鹿鳴館では繰り広げられていたようですわ。

そんな鹿鳴館バザーの営業はかなり積極的だったようで、井上侯爵のご令嬢が西郷侯爵に声をかけてほとんど無理やり商品を買わせたりしたという逸話までもが残っておりますわ。
無論、名家の令嬢がそんな商人紛いのことをすることに批判もあちこちから出たようですけれども――。

兎角、本邦初のバザーは大成功を収めまして「東京慈恵会看護婦教育所」としてその形が後の世に伝わっておりますわ。

鹿鳴館と申しますと教科書ではあまり良い評価をされていない面もありますけれども、そんな中「鹿鳴館の花」と称され尊敬された捨松夫人は凄い方ですわね。
公爵婦人として数カ国語を話しまして鹿鳴館外交に華を添えながら慈善事業を行い、戦中は看護婦としても活躍されていたそうですわ。

そのうちの一つにでも近づけたら良いのですけれども――。


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