N–Log⑥〜あだ名禁止に見るルールの必要性〜

どうもFuyaです。N-Logも第6回を迎えました。

大学受験生としては少しでも長く勉強と向き合わなければいけない時期ですが、個人的には隔週1度のこの記事を継続できるぐらいには余裕を持ちつつ行きたいと思うこの頃。もちろん全力で望む結果に向けて頑張っていますが、身の丈に合わない無茶をしても良いことはないですし、参考書を一度閉じ、肩の力を抜いて思索に耽ることと致しましょう。

さて今回のNゼミのテーマは「小学校での『〇〇さん』という呼称を義務付けるべきか」。Nゼミについては第一回の記事で詳しく説明しているのでそちらも合わせてお楽しみいただければ幸いです。

・本当に「いけないこと」なのか

今回の大きなテーマである「さん付けの義務化」は以前から議論を呼んでいたテーマです。

この施策の大きな意義としては

・生徒間で自然発生した「不快に感じるあだ名」によるトラブルの発生の抑止。

・将来の目上の人とのコミュニケーションに向けて適切な距離感と呼称に慣れておく。

という二点が挙げられるでしょうか。

ちなみに今回のNゼミではファシリテーターから指定された立場に立っての意見表明という形式が取られ、私は反対の立場に立っていました。私個人の感想としても反対の意見です。

賛成側の意見をまとめると、距離感が過度に縮まり過ぎるとお互いに不快な思いをすることが増えたり、小学生であれば先生と言った目上の人をあだ名で呼んでしまうようになって失礼だったり、いわゆる「LGBTQ」の児童への配慮であったり、誰に対しても使える呼称なので別に反対することではないのではないか、と言った意見が挙げられました。

一方で反対意見に立つと、まず第一に「呼びづらい」と言う点が挙げられます。私自身にはあだ名で呼ぶほど親密な友人は少ないですが、友人関係において「あだ名」「愛称」があると距離感は一気に縮まりますよね。

 もちろん時折友人関係で距離感を間違えて相手に不快な思いをさせてしまったり、失礼な態度で接してしまうと言った失敗をしてしまうことはあるかもしれません。しかしそれで得られるコミュニケーションの体験は「学校」という場においてはむしろ良い学習と言えるのではないでしょうか。児童間のコミュニケーションに対してのハードルを高めてしまい、交流が減ってしまっては「適切なコミュニケーションの指導」としては本末転倒です。

 また「ルールである必要はない」とも考えます。全員が絶対守らなければならないルールにしてしまった場合、仮に違反してしまった場合にどう言った指導がなされるのでしょうか。学校の外ではもしかしたら「あだ名」で呼ぶ関係であった児童達が、その場でつい「あだ名」で呼んでしまったことによって周りからの好奇の目に晒されてしまい、逆にトラブルの原因になる可能性もあります。「不快なあだ名」はいじめやトラブルの原因の1つであって全てとは言えません。様々な要因の一つに過ぎない問題に蓋をしたところで、本質への変化は見られず、形だけが変化する結果に終わりそうだというのが正直な感想です。

 小学生達は「ルール」というものに非常に敏感です。「怒られたくない」「ルールに違反することは良くない」という思いからその枠から外れた友人を勢い余って攻撃しかねません。そんな彼らに、意味も分かりにくく日々の生活に直結するデリケートなルールを科し、その失敗を「いけないこと」と一様に断じるのは本当に正しい指導と言えるのでしょうか。コミュニケーションを育むのであれば、多少の失敗から学ばせるのも必要であると考えます。

・ルールは誰の為のもの?

類似する例として香川県で施行されている「ゲーム禁止条例」も合わせて考察していきたいと思います。

こちらの意図としても「青少年を有害な過剰なゲーム・インターネット使用から遠ざけ、健康を守る」というものがあります。両者に共通するポイントは「子供を守る」という目的で作られている点です。

親や教師と言った保護者目線からすれば、避けられる危険から子供を守りたいと考えるのは当然の考えかもしれません。

ですが本当にルールで一律に管理することを「守っている」として良いのでしょうか。枠組みの中に児童を収めれば、当然大人達は管理しやすくなります。トラブルに直面した際も「ルール」というものさしがあればどちらかを「悪」とし、それを正す為に介入して指導をすることが可能です。結果として「守る」ことはできるかもしれません。

しかしゲームに依存するのは果たしてゲームが悪いのでしょうか。他人から見て「依存」と言えるほどにのめりこみ、行き場をなくして苦しんでいる子供からゲームすら奪ってしまったら、その子は幸せなのでしょうか。あだ名で呼んでトラブルになるのは果たしてあだ名が悪いのでしょうか。「そのあだ名で呼ばれたくない」という意思表示すらできない環境は果たして望ましいコミュニケーションが行われている空間なのでしょうか。

私はその本質から目を背け、大人達が管理の手間を減らす為にルールを利用しているように感じます。「ルールによって適切な指導が成されている」とすれば保護者は安心です。誰もが分かりやすいルールがあれば善悪と責任の所在は全て明確になります。ルールの言う通りにしていれば子供達が大人の想定外のトラブルを起こすこともありません。ですがそれは「大人の為のルール」です。

子供に必要なのは都合の悪いものを避けて安全な道を歩かせることよりも、危険であることについてや善と悪について「知ること」「考えること」ではないでしょうか。多様化する社会の中に「絶対の正解」は存在しません。ルールによってもたらされる「正解」も状況と場合によって大きく異なります。

子供を守るルールの理想型は大人の手の届く範囲に子供を置く「ケージ」ではなく子供が危険に接した時、取り返しがつく範囲に止める「セーフティーネット」のようなものだと思っています。未熟な存在を成長させるのは失敗の経験です。それによって自身で「正解」を掴める環境がベストではないでしょうか。


N-Logでは僕自身が明確な答えを出す訳ではなく、これを読んだことをきっかけに読者の皆様に是非考えていただきたいと思っています。この問題にも「絶対の正解」は存在しないと考えるからです。

次回も皆様が何か考えたり、世界を見つめ直すきっかけになる記事を目指して。無事に続いたらまたお会いしましょう。もし感想を伝えたい、という方がいらっしゃいましたらTwitter(@fuya_nnnn)までお願いします。

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