N-Log①〜趣味のNゼミ感想文〜

どうもFuyaです。
前回の「サイコロサイクル制作後記」に続いて今回は趣味の長文その2。
一度長い文章を放流すると、調子に乗って色々書いてみたいと思うわけです。
「Nゼミの感想なら馴染み深いし書きやすそう!」と思って試しに始めてみました。

・そもそもNゼミとは

 N高等学校通学コースのカリキュラムの1つ。生徒達が授業中に特定のグループで集まってティーチング・アシスタント(TA)と呼ばれる大学生のスタッフの方と共通のテーマについてディベートするものです。
今回は10/7に実施した回での
「AIに全て人生が管理されることについてどう思うか?」
について感想や考察を書いていこうと思います。

・AIに管理される世界

AIの進歩は近年著しく、膨大なデータを元に先のことを予測するシステムは現在においても幅広い分野で活躍しています。導入で登場したビッグデータを元にした広告表示などはまさにその例ですね。
「機械によって支配された世界なんてタイクツだ!」と言うのは少年漫画での王道展開だったりするわけですが、そもそも本当に退屈なのでしょうか。
例を挙げてみればソーシャルゲームにおけるイベント。あれも機械に拘束され生活を支配されるようなユーザーが多く生まれる訳ですが、ゲーム内の報酬がちゃんとあるからみんながプレイする訳です。
そもそも働いたり勉強することに何一つリターンがなければ誰も好んで続ける道を選びません。日本でも最近ようやく好条件の職を求めて何度も転職する文化が根付きつつあります。
実利的なリターン(お金になるとか物がもらえることなど)や精神的なリターン(感謝される、褒められる、自己肯定に繋がることなど)を誰しもが必ず求めています。
誰もリターンのない行動はしないわけで、もし仮にAIに管理されることによって大多数にリターンがあるのなら簡単に世の中なんてひっくり返るんじゃないか、とも思います。

さて、管理されるメリットやリターンとしては以下のようなものが挙げられるでしょうか。
・AIによってスケジュールや人の流れ、作業やそもそもその仕事に適した人間による作業空間が構築でき、無駄な作業や教育にかかる期間が減らせる。
・自分に適する仕事や勤務形態をAIが示してくれるので多くの人が自分に取ってリターンの大きい生活を送れる。

このように人間自体が少ない時間や労力、あるいは金銭の投資で動けるようになる極めて合理的な社会です。
「働き方」というものはその時代における合理性に基づいて社会全体で構築されていくものです。
例えば江戸時代以前の日本であれば農家の子供は農家に、商人の子は商人になるというように稼業を継いでいくものでした。
農家であれば土地や環境によって耕し方なども変わってきます。商人であれば取り扱う商品の知識が多ければ多いほど便利でしょう。
自分の子供に幼い頃からその技術を伝達すれば、右も左も分からない人間を一から育てるといった新人教育にかける資源が少なくて済みます。それに自分で苦労してその他のことに時間や労力を割いたとして報われるとは限りません。
社会全体が豊かではなく一歩間違えれば路頭に迷ってしまう時代では、子供が食べることに困らないようにちゃんとしたセーフティネットとして「稼業を継ぐ」という風習が機能していた訳です。

豊かな時代になり、それだけ仕事が増えて投資できるようになると色々無茶もできるようになります。高度経済成長にともなって皆に余裕が生まれると自由に働けるようになりました。
農家の子であっても学者になれるし、商人の子がスポーツ選手になるなんてこともできるようになりました。
しかし、自由には必ず責任が伴います。自分で選んだ道でのミスは自分で責任を取らなければいけません。
働くことはダイレクトに生きることに直結します。自由に働く=生きることは、いつも死と隣合わせなのです。
責任から逃れる為に人は命綱を求めます。より条件の良い仕事で安定した生活を得る為には会社に雇ってもらう、買ってもらう必要があります。自分にそれに見合う「商品性能」がなければ当然買って貰えないので自分の「性能」を示せるように良い大学や実用的なスキルを得ることを目指して勉強する訳です。
AIによっての分析で定められた職業や生活というのは更に詳細な「商品情報」となります。
今までは商品(本人)と保証書(履歴書)と値札(給与条件)だけだったものに、説明書(これまでの活動や経歴、ポートフォリオといえば分かりやすいでしょうか)や他の製品と比べた詳細なデータまで見られるようになります。商品価値が保証され、もしかしたら唯一の市場を独占する製品があるかもしれません。
このように、自分の身を守る上では管理された方が楽になる可能性もあるでしょう。

・管理するのは本当にAIなのか

 しかしディベート上では管理されたくない、という人の方が多数派でした。
これにはおそらく先に述べたとおり、「合理性」に対して感情として納得がいかないということが原因だと思います。
自由って良い!自由は素晴らしい!という論調は近年散見されます。
いわゆるYoutuberと呼ばれるタレント達が「好きなことして、生きていく」という広告を打ち出したことも記憶に新しいですね。
僕自身自分の道に責任を持てるなら、AIの並べる数字などには頼らず自分の道を進んでいくべきだと思います。
しかしこの責任をAIの分析に委ねてしまうと途端に問題が生じます。
どれだけ正確な分析をする機械があったとして、なんの参考にもならない意味のわからないデータを混ぜればそれは当然意味のない分析結果が帰ってきます。

世の中には偶然そのデータが取れたこともあるでしょう。例えばなんの気はなしにボールを投げたら風で飛ばされ、ソフトボール投げの世界新記録を更新したとします。
当然それが「まぐれ」であることをデータに考慮されることがほとんどでしょう。
ですがこれが重要な学力試験の場であった場合。たまたま前日のヤマが当たった結果であっても試験の点数は真面目に勉強していた人と変わりません。これによって「数学の天才である」という判定をAIが下すことは容易に想像できます。この値が「まぐれである」か「努力によるものであるか」は値だけを見て窺い知ることはできません。

悪意を持ってデータを改ざんすることだって容易になるでしょう。芸能に秀でた学校にしたい、と教職員がとある生徒のデータを「俳優としての才能がある」としたとします。
それによって自信を持った生徒が高校進学ではなく演劇の専門学校に莫大な投資をし、結果芽が出なかった場合、誰がその責任を取るのでしょうか。道義的にはデータを改ざんした教職員に責任があるでしょう。しかし「AIのデータだから」と全面的に信用した彼に責任がないとも言い切れません。

情報というものはなんでもそうですが、AIの示すデータと言うのは使用者の裁量でどんな風にも扱うことができる魔法の道具です。包丁のように料理をする道具にもなれば、人を刺して殺すこともできる道具であると言えます。
これはディベートの最中に例として上がった「黒人である」ことを理由に多様性を求める大学から点数を改ざんされて合格判定が出た生徒と、「白人である」ことを理由に合格基準を満たしていたにも限らず不合格になってしまった生徒にも言えます。「人種」というデータを付け足し、最もらしい「多様性」という新しい基準によって評価が覆されてしまうこともあるのです。

多様性の社会というのは全員が平等に同じスタートラインから徒競走に望むようなものです。その中でAIによる分析のデータで走る速さが決められていくのであれば問題はありませんが、スタートラインが変わってしまったり、1人だけ測定している時間が短かったりすればそれは多様性とは言えないでしょう。



・まとめ

 時代が合理性を求めて変わっていったとして、我々が必ずしも変わらなければいけないという訳ではありません。必要なのは常に自分の選択に責任が持てるかどうか考えることであると感じます。
AIを自分の目(eye)の変わりにするのではなく自分(I)を導く助けとして運用できるように、これからもNゼミを通して様々な視点から考える助けにこの文がなっていれば幸いです。

感想や何かお話したい時は是非是非Twitter(@Fuya_nnnn)や在校生の方は同名のSlackまでお願いします。それではまた僕の気が向いた時にお会いしましょう。


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