N−Log(Nゼミの長い感想③)

どうもFuyaです。

今回から「Nゼミの長い感想文」から改題し、通称「N-Log」のお時間です。

今回もまったりと高校生達のディベートをまとめていきます。

今回のテーマは「義務教育の芸術科目は必修であるべきか?」

それでは第三回、タイトルと共に気持ちを新たに始めていきましょう。

Nゼミが何かわからないという方は第一回を読んで頂けると幸いです。

1.「知っていると知らないのではあまりにも大きな違い」(賛成派)

今回は圧倒的に「必修であるべき」という賛成派の意見が多かったですね。

出た意見の一部を抜粋するとこんな感じ。

・教養科目について知っているのと知らないのとではスタートラインから大きく違うから。

・小学校の図工室にあるような正しい道具に早くから触れておくことで、大人になってから調べて道具を集める際の負担が少なくて済むから。

・教養というのは一種の共通言語なので、例えば「ゴッホの『ひまわり』」や「ベートーベンの『交響曲第5番』」について最低限知らないことが社会に出た際に大きなデメリットになる。

挙がった意見を要約すると「一種のリテラシーとして機能している」「仮に興味が出た時にスタートラインで大きく突き放されてしまう」とされる芸術科目。

実際に音楽や図工の才能や興味はともかくとして「知識」「技術」の学習の面で考えるなら義務教育範囲の学習に大きな重要性があると言えます。

小学校の図工であれば絵の具などの道具の基礎的な使い方、音楽であれば鍵盤ハーモニカを通して鍵盤楽器や楽譜の読み方、「ドレミファソラシドと言った音」が存在することすら授業で習わなければ興味がない限り知ることはない児童が生まれてしまうでしょう。「当たり前じゃん」と思っている知識こそ、実は一番初めに触れたことで「当たり前」の存在になっているのです。

ディベートの際に例として挙げられた音楽観賞会は授業を通して技術だけでなく観劇のマナーを学ぶという上でも重要ですし、図工を通しての刃物類の取り扱いも正しく学ばなければ事故に繋がります。

感性を養う、という点でも大きな効果があります。人は何かを作ろう、生み出そうとする際にインプットされていない知識や感性や経験は絶対に自分でアウトプットすることができません。私自身も「感想」というアウトプットをする為に多くの情報をインプットしています。


2.「もっと選ばせて欲しかった」(反対派)

ここまで多くのメリットを示してきましたが、反対派も0ではありませんでした。

反対派の意見も一部抜粋。

・自分が苦手なことを強制されるのが苦痛だった。もっと選択肢が多ければ得意なものにも出会えていたかもしれない。

・将来使わない人の方が圧倒的に多いので、その授業に割く時間に意義を感じない。やりたい人だけがやれば良いのでは。

自分で選んで自由な学びができる環境にあるN高生ならではの意見であるといった印象を受けますが、実際私自身も小中学生当時は本当に手先が不器用だったので「こんなことやって何になるんだよ」という感想を抱いていました。

現代の日本の授業では小学校から英語が義務化、プログラミングの授業も必修になりました。言い方を悪くすれば、「多くのものを一方的に押し付けている」と言えなくもありません。

実際に私の小学校の音楽の授業においては正しい知識や技術というよりも「努力しているように見た人が見える」ということが重視され「全身を揺らして感情表現をしながら合唱するように」という、声楽的な観点から見ると大きな誤りのある指導がなされました。似たような話を多く聞きますし、実際に多くの教育現場で起こっていることであるでしょう。

「学校の授業は誰の為の授業であるか」と言われたら生徒の為の授業です。

体育の武道専攻がどうして「男子は柔道、女子は剣道」(東京都の例)でなければならないのか。ソプラノリコーダーとアルトリコーダーは大きく配置の異なる楽器であるのに「リコーダーである」という理由で中学ではアルトリコーダーの学習をしなければならないのか。正統な理由があるにせよ、それは授業を受ける子供達には多くの場合明確でないままです。その状態で受け取る授業が果たして生徒の為であるかと言われると確かに疑問を覚えます。

水彩画が得意でも、彫刻の制作は苦手という場合もあるでしょう。鍵盤楽器が苦手でも、歌うことは得意だという場合もあります。

多くの知識を身に付け、幅広い経験を早期からすることに大きなメリットがあるというのは前項で述べた通りですが、それを受け取る側にとっての負担が少なくて済む方法も今後は求められていくでしょう。

3.「検索して分かる」は本質ではない

昨今のインターネットの普及によって「芸術に関して受け取る機会があるから、必修にしなくても児童は受け取っていくのではないか」という意見が出ました。確かにインターネットを介してありとあらゆる情報を入手できるこれからの児童・生徒にとって「教養」という分野はもしかしたら授業以上に外部からの受信が主な接続手段となるかもしれません。

しかし「インターネットで調べても正しい情報が出てくるとは限らない」という言説も数年経って大きく変わりました。「当然このレベルは知っているだろう・経験しているだろう」という前提で書かれるものもあれば、「見る側はロクに知らないだろう」ということを良いことにいい加減な記述をするサイトが検索上位に食い込むことも増えました。

例えば500円の品物を2個と700円の品物を買った時の合計を知る為に仮に電卓を使う時「それらを全て足した数字が分かれば良いこと」「よって使うのは足し算、2個買っているのだから掛け算も使えること」が分からなければ入力する情報が分からず使うことができません。インターネットの検索は”より高度な電卓”だと考えてもらうのが分かりやすいでしょうか。

知識と教養をベースに人間が思考していくことはどれだけ時代が進み、技術が進歩したとしても人間に求められる技術です。「この情報はいらない」と考え判断するにも別の知識や情報が元になっています。

今回のディベートは今まで以上に激論だったのですが、その論拠となる「思考」や「経験」も以前どこかで培われてきたものです。それらの経験を通して、思考し議論できるということが「教養科目は必修であるべき」ことの証左と言えるのではないでしょうか。

この記事がそんな考える為の知識や経験に、「電卓に入力する数式」のような存在になっていれば幸いです。

Nゼミの実施は隔週なので、またその時期にお会いしましょう。

それでは。
@fuya_nnnn


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