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「◯◯ガチャ論」に依存することの危険性+「ワークライフバランス」というか「ワークライフコントローラビリティ」の方が大事なのではないかという話

最初にまとめると、「若手のうちは量を積むことが大事!」という主張をよく聞きますが、量」の部分だけを強調してしまうと、「質」の部分がお座なりになるので「質」を意識することが重要と思っています。

一方で、この主張の根幹は一理あり、「若手のうちは量というか、スタートダッシュを切れて累乗的に有利になるキャリア資産を積んでおけ」という話なのかなと考えています。この概念について、「ワークライフバランス」ではなく、「ワークライフコントロラビリティ」という概念を元に説明していきます。

それと少し関連する概念として、「配属ガチャ」などの「◯◯ガチャ論」に関して、一定の理解は示しつつも、これを安易に使いすぎてしまうと、「自分の現在の環境を活かす」という思考を放棄してしまい、「自分で自分の環境を良くするアプローチを放棄する免罪符」になるので、それはそれで問題かもしれない、という話をしていきます。

また、本問題については、12月6日にUPされたPIVOTの動画とも関連する内容ですので、そちらも合わせてご参照いただけますと幸いです。

▼【組織崩壊のメカニズム】元DeNA人材育成責任者が日本のマネジメントに警鐘/大企業・メガベンチャーに共通する凡庸化すごろく
https://youtu.be/W_b2vp19nWA?si=pEPvHMoTDy_TmDXd



▼参考
【組織崩壊のメカニズム】元DeNA人材育成責任者が日本のマネジメントに警鐘/大企業・メガベンチャーに共通する凡庸化すごろく
https://www.youtube.com/watch?v=W_b2vp19nWA&t=51

Ch1:「若手のうちは量を積んでおけ」と「ワークライフコントローラビリティ」について

まず、「若手のうちは量を積んでおけ」は、ニュアンス修正をした方がよさそうと思うものの、一理どころか「百理くらいある」と考えています。

主張者の話を聞いていると、「量を積んでおけ」というよりも、「初期に還元可能性の高いキャリア資産を高速で積むことで、キャリアの上昇気流に乗れるチケットを手に入れろ」が真意なのかなと思います。

例えば、20代の貴重な時間の中で、「◯◯の領域で社内で圧倒的な成果を出した」や「◯◯の領域で社外にも認められる専門性を身に着けた」という状態になれば、その後に得られる機会も格段に変わっていきます。

一方で、「ワークライフバランスを重視しよう」や「一生懸命に仕事をし過ぎて消耗したくない」と考えると、その後に得られる機会にも恵まれず、「一定誰でもできそうな仕事」しか獲得しにくくなってきます。

そもそも、「ワークライフバランスを重視したい」と言いつつ、その実態は「ワークライフコントローラビリティが欲しい」であり、自分のライフステージなどに合わせて労働量をコントロールしていくことで、「仕事だけに囚われない人生全体を含めた充実度を上げたい」というのが真のニーズなのかなと思います。

そして、この「ワークライフコントローラビリティ」は、「主体的なキャリア選択権」に依存しており、これを手に入れるためには、「あの人に仕事を任せたいよねと」「あの人なら成果を上げてくれそうだよね」と思ってもらえるかが関係していきます。

20代のうちに、「キャリアの上昇気流」に乗れれば、機会獲得によって、実績も実力も雪だるま式に手に入るという構造です。一方で、初期のスタートダッシュで資産を積まなければ、「主体的なキャリア選択権」はなく、「ワークライフコントローラビリティ」が減少するリスクがあります。

よって、初期から「ワークライフバランス」を意識しすぎると、本当に得たかったかもしれない「ワークライフコントローラビリティ」を得られないジレンマが発生するので、「若手のうちは量というか、スタートダッシュを切れて累乗的に有利になるキャリア資産を積んでおけ」が、本言説の真意なのかなと思います。

Ch2:「◯◯ガチャ」の違和感と「ニーバーの祈り」について

直近、「◯◯ガチャ」という言葉があり、私も使うことがありますが、ここに対する危険性について考えを書きます。

まず、私自身、新卒1年目は、終電前に帰ろうとするとメンターにしばかれる環境でした。おそらく、脳の1/5くらいしか作動してなかったので、逆ベガパンク状態でした。(人間は過度な恐怖状態になると認知能力が下がります)

結婚直後、22時に帰宅しようとすると「お前はもう成長を諦めたんだな」というような言葉も言われたこともありましたし、物理的な負荷だけでなく、「お前は社会人向いてないから早く辞めた方がいいよ」と言われていたので、精神的な負荷も高かったと感じます。

なぜ違和感に気付かなかったというと、同期も同じ状況の人が大半であり、「社会人はこんな感じで、こうやって強くなっていくもの」と思っていたためで、これが「生存者バイアス」かと今では思います。あと、あの時代、働き方改革前は、どの会社も多かれ少なかれ、そんな感じだったように思います。

「それが当たり前」になると、誰も指摘できなくなるという構造ですが、そういったもので、一体いくつの人の才能の芽を積んでしまうんだろうかと思います。採用への注力の前に育成を注力すること、もっというと、人材育成の基盤文化を作らない限り、人材と組織の活性化は起きないと考えています。

また、生存者バイアスは継承され、不可逆性の高い状態に陥り、手遅れになっていくので、スタートアップの場合は早め、大企業の場合は柔軟な部分から変えていくのがいいです。

「なんだったんだろうあれ」と思っていますが、やっていた御本人が「なんだったんだろうあれ」と思っていたそうなので、断罪するとか、そういう意図はありません。

ただし、1年目は何も成長した実感はありませんし、いま理論と照合すると破茶滅茶なアプローチだらけであるので、ある側面を見れば「ハズレガチャ」を引いたかもしれません。

ただし、「その環境が完全に自分の人生でマイナスだったか?」というとそうでもないです。

なぜなら、下記の効果があったためです。
①あの時よりも辛い時期はないので、大抵のことはあの時よりマシと思えるようになった
②ぶっちゃけその時の憎しみにより、学習をサボることをしなかった
③その執念が今の事業を生み出している

一方で、この環境が良いとも思っておらず、私自身、入社する前に、諸々の人生のゴタツキによって、「逆境耐性ワクチン」を接種済みであり、「どこかで人生は逆転すればいいかな」という自己効力感ならびに価値観を持っていたために、ギリギリ生き残れただけだと感じます。

あと半年、同じ部署&同じメンターであったら、社会人として潰れていましたし、生き残ったとしてもモラハラ体質を強固に受け継いでしまったと思うので、それこそ"おかげで"ではなく、"たまたま"生き残れただけと感じます。なので、「自分の後世には絶対に引き継がない」という思いで仕事をしています。

※なので、実はDeNAの元々の人材育成文化はそこまで良いと思っておらず、それが私がDeNA流の~とは表現しない理由です。

もちろん、DeNAに良いところはありつつも、そもそも、サイバーさん、ビズリーチさんなど、他の導入会社様の方が、むしろ坂井のメソッドに詳しく、文化的にも馴染んでいると感じます。ただし、どの会社出身であっても、「前職の育成文化を盲目的に信仰する」は危険と考えており、背景の成立要件や理論照合がないと、上記のような「生存者バイアス」を再生産するだけと考えています。なので、動画でも「◯◯Way」の絶対視の危険性を話している次第となります。

さて、何を言いたいかというと、「配属ガチャ」や「上司ガチャ」と言うが、その「ガチャをアタリにするか、ハズレのままにするか」の工夫の余地自体は残されている、ということです。



ソーシャルゲームの世界のようにリセマラができるわけでもなく、全員が資産家/地主の家系に生まれるわけでもなく、世の中は「コントロールできるもの」と「コントロールできないもの」に分かれているはずです。

「コントロールできないもの」はたくさんあり、そこの工夫は無理です。一方で、「コントロールできるもの」はまだあるはずで、そこからわらしべ長者的に勝っていくことはできるはずです。

この考えのヒントになるのが、下記のニーバーの祈りとなります。

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー

ニーバーの祈りでいうと、下記の3要素がありますが、「◯◯ガチャ論」を唱えすぎてしまうと、③のコントロールできるものを見極める姿勢を自ら放棄することに繋がってしまいます。

①変えることのできないものを静穏に受け入れる力
②変えるべきものを変える勇気
③変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを

また、これは「コネクティングドット」の話でもあり、例えば、花形部署の配属ではなく、疎んじられている部署の配属だとしても、実は今後当たり前となる業界かもしれず、10年後に第一人者になれるかもしれません。

一方で、この「コネクティングドット」は主体的な意志×努力によって成立するものであり、「選んだ道を正解にする」という言葉が一時期流行していましたが、主体的な意志も努力もなく、「予定調和に流された惰性的な漂着を正当化するための免罪符」に使われているのを見ると、本意からズレているとも感じます。

踏まえて、「どうやってこの経験を活かそうか?」という思考自体は重要であり、その状況に対して、「◯◯ガチャに外れた」で思考/行動を放棄してしまうのも勿体ないかもしれません。

※ニーバーの祈りは、『小倉昌男 祈りと経営~ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』にも書いてありますが、その書籍と一緒に理解すると、心に染みます。色々大変な裏側もあるし、家庭の思想⇔経営の思想は連関するものだなと思いました。

一方で、メンター/マネージャー側のコミュニケーションとして、「今の経験をどう活かすか考えろよ!」では無理があり、「この経験をあなたなら活かせるよ。なぜなら~」という自己効力感のフォローがない限りは、むしろ「自分とあの人は違うんだな」で終わってしまうので、正しいアプローチではないです。

それどころか、PIVOTの動画の後半でもあるように、「私って天才だから」という自己陶酔の道具=承認欲求サンドバックに他者を使うメンター・マネージャーはどうかしてると思います。

Ch3:「成功者の逆境ストーリー」のインフレと「コンフォートゾーンから出ろ!」の空回り感

最近のよくある成功者の話として、「今は自分はこのように一定の成功を納めたが、壮絶な過去が存在していた」⇒「具体的には、こういう過去があった」⇒「ゆえに、どんな逆境でも自分の意志次第で跳ね除けられる」というものが出ていると感じます。

かつて日本テレビ系列で放送されていた『いつみても波瀾万丈』の民主化というか、SNSの時代において、TVタレントだけでなく、インフルエンサーのコンテンツとしても開放されてきた流れと感じます。

しかも、この語り手が、たいてい文化資本などに恵まれていたという背景が出てきて、その時点で違和感を覚える方もいると思います。

このストーリーテリングの着地点は、「だから、自分次第で自分の道を切り拓ける!」「コンフォートゾーンから出よう!」「選択肢を広げよう!」といった具合です。

ただ、選択肢に気づかせても、選択肢を選べる感がない感を作ってしまっては、「あの人と自分は違うからこうなれない」になるだけであるとも感じます。

私自身、家庭の金融資産がゼロになった時期があったので、逆境はあったかもしれませんが、その一方で恵まれていた部分もあります。

例えば、「様々な選択肢を提示するだけでなく、自己効力感を育んでくれた親や妻の存在」「無理と思っていたことを乗り越えてきた経験から生まれた自己効力感の存在」があったので、それは貴重な資産だと思います。

つまり、諸々の好条件に裏で恵まれつつも、それを隠しながら「自分は持たざる側の人間である」という擬態をし、「だから、努力次第で人生は切り拓ける!」と伝えるのはむしろ逆効果かもしれず、「逆境があった"けど"成功できた」と見せかけて、「逆境があった"から"成功できた」のようなメッセージの反転が起きるかもしれず、自己のタレント性や物語のドラマ性は増幅するかもしれませんが、本意とズレるのかもなと思います。

「コンフォートゾーン論」に例えると、「コンフォートゾーンから出よう!」の言葉で出られる人はすでに出ているので、本来的なメッセージは「コンフォートゾーンから出られそう感」を整えることであり、「選択肢の提示×選択肢を選べる感はセット」であります。

まとめると、下記の図のように
A:「①選択肢があると知っていて、②選択肢を目指せる」
B:「①選択肢があると知らないから、②選択肢を目指せない」の間には、C:「①選択肢があると知っているけど、②目指せる気がしない」が転がっており、ここの橋渡しをせずに、「自分もできたんだから、できるよ!」と言っても無理があります。


この背景には、「自由競争によって個人/組織は淘汰されていき、それによって生産性が上がるから良いのだ」「機会は平等であり、努力次第なのだ」というジョン・ロック的な観点での平等思想がある気がしますが、その基盤にはサンデル氏が批判するような「能力主義の暴走」が横たわっている印象を受けます。

上記については、日本企業/組織でも同じような構造の問題が起きていると感じます。

ミッション/ビジョン/バリューなどで「挑戦」「イノベーション」などの用語が並んでいて、「なんでバリューに挑戦って書いてあるのに、挑戦しないの?」と圧を賭けたところで、「自分はこの人と違って挑戦できないんだ…」になるだけであり、標語だけで企業/組織が変わっているならば、誰も苦労していないと思います。

上記が、私が自己効力感、もっというと、組織効力感を重視している理由です。

「人の意志」や「選択肢の拡大」が重視されてきた一方で、そこで零れ落ちてきた「自分ならできそう感」や「この人たちとならやれそう感」がなければ、組織のマジョリティーが変わることはない、と考えています。

むしろ、MVVで「挑戦」と掲げているのに、全く挑戦しない部課長を見て、「なんだよ、嘘かよ」となってしまう状況は、現場の白けを生むだけであり、「MVV策定が何かを変えてくれる」という「MVV信奉」はリスキーと感じます。ただ、「変わった感」は出せるので、空中戦施策としてはもってこいです。

Ch4:「出家済みコーチング」の問題点

まずはじめに、コーチング自体を否定する意図は決してありません。
私自身、コーチング心理学や各理論については、自分の開発したプログラムに入れておりますし、効果を否定するものでもありません。

ただし、「過剰なブームの裏で歪みが出ている」とも感じますので、その問題について考えを記載していきます。

近年、「コーチング」の人材開発/組織開発への導入が進んでいます。それは「キャリア自律」や「心理的安全性」などのブームと結合し、「相手に意見を促し、キャリア/業務に対する主体性を発揮できる組織を作る」という文脈の中で、流行しているものと理解しています。

ただ、私自身、前職の社内での導入方法を見ていても、効果もある一方で、「なんだこれ」と思うような事象を見てきました。

一言で違和感を説明すれば、「相手に問いかける前に、まずはお前が動けよ」という話です。

1on1などの場で相手に対して、傾聴や問いかけを行い、思考の引き出しや気付きを促すというアプローチが盛んになる一方で、コーチングに心酔した人々に対して、「この人自身、自分でリスクを取って挑戦することは一切しないのはなぜなんだ?」という違和感がありました。

「いや、問いかける前に、まずは手伝ってあげなよ。いま滅茶苦茶この人困ってるじゃん!」、「人の可能性を信じる前に、まずは自分自身が今できないことに挑戦して自分の可能性を広げろよ!」と思うこともありましたし、いつの間にか、「戦場の真ん中で悟りを開く状態」になっている人を見て、「なぜあなただけ回復の泉にいるんだ?」という違和感もありました。

そういうと、「そういう俯瞰ポジションの人も必要だから」というカウンターが来る時がありますが、「本当は実務で道を切り拓く気概がなくなったことの隠蔽だろ」と昔は思ってました。

そもそもなのですが、コーチングの大家であり、『1兆ドルコーチ』の著書でもあるビル・キャンベル氏自体、自分で企業経営などをした後に、コーチとして活躍していたわけです。

経営や事業のリアルファイト未経験で、そこに対して我関せずになると、社内セラピー装置としてのコーチングに終始するどころか、「いや、まずはあなたが最前線でリアルファイトしてくれよ」の違和感が残ります。

「背中を見せてから、コーチング」なら分かるのですが、「背中を見せずに、コーチング」ってなんなんだろうとも思います。


また、「背中を見せずに、コーチング」については、山本五十六の格言の一行目で躓いているじゃないかと思っていました

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

加えて、そもそも、症例⇒処方箋の順番もなく、「銀の弾丸」としてコーチングや心理的安全性が使わるのも違和感があり、「適切な時に適切な理論/手法を元にしてアプローチする」という道具箱的な手法が妥当であり、「ひとつの栄養素だけ接種しても、逆に体調を崩すだけでは?」とも考えています。

また、コーチングブームのメタファーとして、中国思想史が似ているんだろうなと思っており、儒家・法家のシステマチックな統治思想で疲弊してくると、その反動で老荘思想が流行してくる流れがあり、そういうトレンドと相似系なのだろうなとも思いました。

そして、その反動でまた、儒家・法家的な統治思想・マネジメント手法が振り子現象で出てくるわけですが、そこで右往左往すると、パッチワーク型マネジメントになってしまいます。

関連して、その昔、南場会長が、人事・組織施策に対して、「HR(ホームルーム)ばっかりしてんじゃねーよ。事業に向かえよ」と言っており、この意見には半分賛成で、半分反対の立場です。

賛成部分は、人事/組織施策は「会社とは事業や顧客価値の最大化に寄与するもの」であるために「実施が目的化」するのはおかしいというものです。

反対部分は、「あれだけ"コトに向かう"を重視していたDeNAでも、結局、人事/組織課題を解決しないと、事業や顧客価値に向かえない状況になってるではないか」という点であります。

なので、振り子というよりは、「事業成長と組織成長の両立」が重要であり、そのためにPIVOTの動画内でも「無駄に組織課題で悩む時間を最小化して、コトに向かう時間を最大化するのが重要」というメッセージで話しております。

「組織課題で悩む時間を極力減らすこと」が、そもそも私がプログラムを開発していた背景となります。

Ch5:本田圭佑さんの強みは「量」というか「成功への執着」なのではの話


また、PIVOTにて、「量を積めば成長するは本当か?」という話をしたのですが、私自身は「圧倒的な量信者」であります。

「本質的であるが、泥臭くて、みんなが避けることに鉱脈がある」という思想の元、「大抵の物事は可処分時間/所得を全ブッコミすれば突破できる」と個人的には考えています。(そして、これが私の生存者バイアスでもあります)

そのために、前職で会社代表を務めていた際も、可処分時間のほぼ全てを自社/競合サービスを触ることに使いつつ、「努力レバーを引けば伸びるがメンバーが手薄な部分」は選り好みせずにやるようにしていました。

「UXは頭で理解するものでなく、心で理解するものである」ので、「なんでこのPdMは1mmも自社サービスを触らないのに、肩書だけPdMって名乗って履歴書を綺麗にしてんの?」というハードボイルドスタイルで、人の自尊心を傷つけるタイプの人間でした。(+今も油断すると全然出る癖だと思います)

ただし、量的な投下量が多くても、①戦略的注力点の考慮、②再現性のあるノウハウの構築をしないと、効率性が上がらないという実体験もあるために、単純な「量信者」でもないかもしれません。

そもそも、「量をこなしていないやつに質を語る権利はない」と仰っている本田圭佑さんは、「振り返り力」や「成功させたいいう気持ち」が尋常ではないわけで、そこの要素を踏まえずに、「量を積めば伸びるだろ」を語っても上手くいかないかもしれないません。PIVOTの動画でお話した通り、「学びのCVR」が低くなるためです。

また、「量を積む」よりも「成功への執着」が根本であり、そこが本質だと思います。

この点に関しては、自動的に給料が支払われる会社員時代よりも、水準が増しているかもしれず、起業するメリットは、この「成功に執着して試行錯誤し続けないと死ぬ」という恐怖心によって「無駄なことへの感度が研ぎ澄まされること」とも思います。

これは子会社代表の時にも、それなりに頑張っていたつもりでしたが、「仮想的飢餓感」と「実態的飢餓感」は異なり、それが「獅子の子落とし的な人材育成」が一定の正当性を持っている理由なのかもしれません。(ただ、これは耐久度を徐々に上げるとか、相手の自己効力感のレベルに関わっているので、少し危険な発想です。)

踏まえて、「成功に執着していれば、自然と量が上がる」の方が自然だと個人的は考えていますし、「執着したくなるほどの成功を見つける」という意味で、パーパスなどはちゃんと使えば機能するとも思っています。

というのをマイルドめに話しているのが、PIVOTの動画となりますので、ぜひご視聴ください。





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