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徒然なる自叙伝5巻

(3580文字)

ボクシングのインハイが終わり、抜け殻だった。

長崎に初めて行ったのに、チャンポンすら食ってないぜ。
そして、九州にはそれ以来一度も行った事がない。ご縁がないのかなぁ。

今思うと、インハイはコンディションが最悪だった。
まず、岐阜から長崎まで車移動。
途中広島で一泊するが、その車内でのエアコンで、なんなら風邪引いた感じになっていた。ロングの車移動ってめちゃくちゃ疲れる。

あとは、夜早く寝たいのに
雑魚寝部屋で他の高校の後輩とかがうるさくて、まぁほんと氣の使えないようなガサツなやつが多くて、全然睡眠がとれなかった。

ほんと僕みたいな繊細な人間には、普段と慣れない環境には適合しにくくて、パフォーマンスたもてないから、そういう図太さをもってるやつがやっぱり勝ち抜けるよね。

とはいえ、相手はやっぱり強かったよ。サウスポーで長身で。
後に、日本一位になってたり、世界選手権に出たとか新聞に載ってたし、プロにもなったのかな、わかんないけど。

ただ、インハイを終えて泣いたんだけど、悔しくて泣いたんじゃなくて、嬉しくて泣いていた。

やっと、この苦しみから解放されると。相当、自分をいじめてたらしい。失恋で傷ついた自分を許せなかったのかもしれない。

国体でリベンジだと先生は言ってたけど、もう僕の糸は切れていて、インハイの時はノックアウトした相手に負けた。相手は、さぞリベンジできて嬉しかったと思うよ。

でも、僕はもうどーでもよかった。

ボクシングって、プロの世界チャンピオンも化け物みたいにすごいけど、(世界チャンピオンの中でも格の違いはあるにせよ)

オリンピックの金メダリストの方が僕はすごいと思っている。

なぜなら、プロは相手の情報が1年前くらいからわかって、そこに向けて調整や対策を練れるけど、

オリンピックは勝ち抜き戦で、
毎回の軽量や検温のコンディションを6日間くらい維持しなきゃいけない。ダメージや疲れも蓄積していくし、相手が誰になるかわからない。

それを勝ち抜くって相当だと思うし、アマチュアの世界の技術のレベルはプロよりも高いと思う。

アマチュア出身や、オリンピックのメダリストはプロでもチャンピオンになる率は高いんじゃないのかな。

部活を終えて、ようやく友人たちと遊んだりする時間ができた。

やつらは、校庭で隠れてタバコを吸うようなやつらで、
10人くらいいたかなぁ、僕もタバコを吸い出したりした。

授業を抜け出して、部室で麻雀するやつもいたし、

僕は保健室の常連だった。
横になって寝たいから。授業は苦痛でしかなかったから。

追試をみんなで、カンニングペーパーを回しあってやり抜くというチームワークもできていった。笑

私服に着替えて、パチスロをやりにいくやつらもいて、警察に捕まってた。笑

なんか、その時って
ノリでありえないことやるのとかが面白いんだよね。

カラオケで酒飲んだりとか、
めちゃくちゃに暴れまくって
部屋の中がびしょびしょになったりしてた。シャンパン浴びせるみたいなのりで。フルチンになったり。

いや〜振り返るとお店に
めちゃくちゃ迷惑かけてるわ。
ごめんなさい。。

ボクシング時代は、減量に耐えてて、みんながうまそうに食べるお弁当や売店に買いに行くパンに憧れた。

とはいえ、僕は高校の3年間で多分、市内で1番吉野家を食べた男だと思う。

毎日、朝から吉野家を食って
昼はスリッパのまま学校を出て、国道の車がビュンビュン通り過ぎる中央分離帯のフェンスを超えて、

昼間の忙しいサラリーマンの間に1人で学ランで混じり、牛丼を食っていた。

なんか、一丁前に社会に出てる氣がしてさ。その頃、野菜にかけるごまドレッシングが無料で、それを牛丼にかけて食べるのが流行っていて、僕らがそれをやりすぎて、その店では禁止になった。のちに有料になる。

今となっては、食事の意識が完全に変わったため、吉野家に行くことはないが、

食べすぎて、しまいには出されて匂いをかいだだけで、氣持ち悪くなっていた。

もう一生分以上食べた氣がするから、もう食べたいと思わない。

全く勉強してこなかったから、大学どうしよう?とか思うわけです。もう、3年生の10月ですよ。国体が終わったのが確か9月。

で、無謀にも大学に行きたいと思うわけです。みんなはちゃんと勉強してきてるし、めっちゃやってきたけど、僕はマジで一切やってない。

だって、そのまま社会人とかいややん。青春時代を完全に部活という、ボクシングという、本質的には自分をいじめ抜くことをやってきちゃったわけだから、

遊びたい反動がめっちゃくるわけですよ。

もうちょっと出席日数が足りていたり、インハイで勝ち抜けていたら、明治大学辺りには推薦でいけたらしいんだけども、

どうも無理そう。

これは、今からでもやるだけやるしかない。ということで、

高校3年生の10月15日に東進ハイスクールに入るわけです。
そんなやつほぼいないよね?笑

だって、確かセンター試験って12月だもんね。

で、僕理系全く中学からレベルアップしていなくて、
数学とか毎回2点なんですよ。因数分解が解けるか解けないかレベル。

だから、文系でいくしかないと思って、英語と国語と日本史で攻めることにした。で、国語は古文と漢文はカットして、現代文一択。

国公立とか無理なんで、私立で。
親には今となってはほんと申し訳ない感謝なのですが、当時のバカ息子のボクはそんなこと考えもしてないんです。

東進のビデオ受講ってのがあって、学校終わったらそれを塾で缶詰で見るんです。3本連続。マジキツかった〜
でも、教え方がうまくて学校の授業より楽しかった。

そして、家では
自分の部屋(テレビや冷蔵庫があった)には一切入らない事にして、

ばーちゃんの部屋の和室で寝泊まりする事にして、勉強しかやらない日々を送ります。

超短期集中モード。
もう、ストレスで髪の毛抜けまくり、学校も休みます。

ひたすら勉強の日々。
頑張った結果、センター試験の前日に、英語が200点満点中、150点くらいいくようになった。それまでは、100点もいかなかった。

ただ、日本史は情報量がありすぎて、20点くらいしかいかなかった。現代文もそこそこな感じで微妙。

センター試験は受けたのかどうか記憶がない。うけてもしょーがないから、やめたのかも?

で、私立の受験を4つ受けた。
見事に全て落ちまして。

流石に凹んだ。
こんなに頑張ったのにダメかと。
電話から聞こえてくるアナウンスが切なかった。

それで、もう完全にどうでも良くなって、

落ちた大学の学部の後期試験が確か2月にあり、それが確か英語と現代文の2科目だけだった。

もう、その日まで2週間くらいだけど、もう勉強に吐き氣がしていて虚無モードだったので、

テキストを一切開かなかった。
全てを手放して、このまま当日のテストの時だけ全力出して、

受かったら行く。
落ちたら浪人してもう一回頑張る。って感じで割り切ったら、なんと受かった!

その時はめちゃくちゃ嬉しくて、
みんなに電話しまくった。

誰も僕が合格すると思ってなかったから、僕の喜びはインパクトに残ったらしくて、後からボクシング部のマネージャーとかに印象的だったと言われた。

ボクシングでインターハイ行く時も、そういえば全校生徒の前で挨拶したっけな。

こうして、晴れて僕は大学をエンジョイする事ができる事になったのです。

その学部は人間学部っていって、
僕らの代でまだ2年目のできて間もない学部だった。

経済とか経営とか理工とか、
色々学科あるけど、どれも全然興味なくて

心理とかそっち系に関心があったので、面白そうだなと思ったのと、僕は大学をエンジョイするために行きたかったわけで、

男女の比率が、男:女=4:6だということが、最大の魅力でしたね。笑

多感な高校時代に、
食欲と性欲を極端に抑えるという反動から、この先に酷い事になっていくわけですが。

高校2年生の時に、はじめて新聞配達のバイトを2ヶ月だけやりました。

僕は団地に住んでいて、
自転車で団地を下って、
その下の地域を120件くらい自転車で。この時に握力がめっちゃついた。

減量しながら
3時に起きて、新聞配達して
隣の市まで自転車で通って
部活やって
自転車で帰って、帰宅してから団地を走ってた。
減量のせいか、体力があるのかないのかわからずで、体育の事業で走ったりするとフラフラしてた。栄養失調だったのかも。

この時に、人生で1回だけなった事がある、金縛りにあいましたね。多分、身体が相当疲れてたんだと思う。

怖い体験はなかったけど。

高校時代は、そんな感じで、ボクシングや受験で頑張ったりして、

成功体験みたいなものを少し得たかもしれないが、

本質としては本当に自分がやりたいことというよりは、

失恋からの現実逃避のボクシングや、社会に出たくないという逃避の大学進学だったという分析になってくるね。

逃げまくってるってことね笑

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