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「絶対安全剃刀」について

確か、高校の終わり頃に読んだと記憶している、高野文子の「絶対安全剃刀」。漫画の短編集で、その中の表題作にもなっている「絶対安全剃刀」の、評論というのか、感想というのか、そんな事を書いてみようと思う。
(※以下、作品の内容について語りますが、この記事を読んでいる方がこの漫画を既に読んでいるものとして記述を進めます。ご了承下さい。)

本作は、僅か9ページの超短編漫画だ。しかしその内容は、想像を広げて読み込むと非常に興味深いものに思える。
僕は、本作で大きな軸になっている要素を「死への茫然とした興味と憧れ」だとして読むことにする。登場人物は少年ふたり、どちらも学生服を着ている事から、おそらく中高生あたりの年頃ではないかと思われる。しかし、この片方、眼鏡をかけて髪を真ん中で分けている少年は、恐らく現実に実在する人間ではなくて、もう一方のいわば「主人公」と位置付けられる少年の『自意識』の一部ではないかと考える。希死念慮、死ぬ事への想像と興味が人の姿を借りて降り立ったのがこの眼鏡の少年なのだろう。
よく、生と死は相対的で正反対なもののように考えられるが、僕は「死ぬ事は生きる事の一部だ」という考えを推しておきたい。生無くして死への想像思索は出来ないのだ。エロスとタナトスという言い方があるが、この主人公をエロスの表象として、眼鏡は彼が産み出したタナトスの表象としておきたい。生無くして死は成り立たない。

さて、主人公をエロスの表象としたが、このエロスはぼんやりと病んでいる。思春期の少年の茫漠とした生の捉え方が生活の意義を希薄にし、さしたる苦悩や絶望も無いまま、彼はゆっくりと死を考えるようになる。
「ただなんとなく つまらなくなったんだ」
主人公が死のうとする理由はこれに尽きる。しかしながら命への執着を捨て切れているわけではなく、彼は眼鏡と話し合いながら「理想の死」を実現しようとする。
「一生に一度の晴れ舞台なんだ」
「ぜったいかっこよくやりたいんだ」
子供がやるままごとのように、彼は死の本質を理解しないまま(あるいは理解していても目を逸らして)遊び半分に自身の死を装飾し始める。

刃物の存在意義の大半は「命を奪うこと」だと思っている。剣や刀、包丁など。そして殺傷が主目的でないカッターやハサミなどであっても、使い道を誤れば容易に人体を傷付ける。無機質な「死の本質」を潜行させておきながら、「絶対安全」と銘打たれた剃刀(その主目的は身嗜みを整えること)は正に、虚飾的な彼の死を司る道具としてうってつけに思える。

「べつにどこだってたいして変わんないよ」
自分が望まない形で死ぬ事になってしまい悔やむ主人公に、眼鏡はこう言い放つ。まさしく死の表象らしい、本質を突いた発言だと思う。次の
「死ぬときだけ、血見ないでったら虫が良すぎるってもんよ」
という台詞も、いかにもと思える。
それでいながら、やはり眼鏡は主人公の「生の意識」から生まれた人格であるようだ。その証拠に、彼はもうじき死ぬ主人公に街へ出てその死に向かう姿を衆目に晒すよう勧める。
「観覧料とってもいいくらいだ」
「女の子がキャーってふりむくぜ」
これらの台詞は眼鏡のものだが、ここには主人公の俗世的な「生の意識」が流入しているような気がする。これから死ぬだけという彼が、金や異性の事を気に留めるだろうか。

と、ここまで順調に進んでいた「理想の死」談義は、主人公が自分の血に染まった死装束姿を姿見に映した所で急展開を見せる。
傷ましい主人公の姿を見た眼鏡が、
「だれだってちっとばかし傷ついてるふうに見えるやつのほうがかっこいい」
と言う。主人公は慌ててその口を抑えて「だめだよそれを言っちゃ」と叫ぶ。このシーンの台詞は鏡写しのように左右が反転している。そしてそのはずみで、眼鏡は死んでしまう。
「傷ついてるふうに見えるやつ」は、冗談混じりで死への憧憬を語り、かっこいい死に様を模索する主人公の浅ましさを謗ったのではないか。そして彼はそのとき初めて自分の愚かさに気付き、眼鏡を止めた。鏡に映る主人公は、これまでの死を弄ぶ稚拙で露悪的な人間ではなく、道徳的で約束に誠実な善人のように描かれる。ここには、不可分な人間の二面性が見て取れる。

しかし、主人公は何も意図して眼鏡を殺したのではないらしい。(恐らく意識上はそうなのであって、無意識下ではどうかは解らないが。)あくまでこれは事故であり、彼は呆然と眼鏡を眺めてから俄かに焦り出し、混乱した様子で彼を罵倒する。
「そりゃ死ぬのは君の勝手だけどねえ 無計画に突然というのが許せん」
「結局もうなーんにも計画どおりになんかいきっこないんだ」
こう独白するが、これもまた死の本質を的確に言い当てているように思える。なんの前準備もなく、突発的な衝動に任せて自殺する。若しくは不慮の事故、事件に巻き込まれて。いつどこでどうなるのか、予測など出来ないし全く不条理なもの、それが死なのだと、声を発しなくなった眼鏡の代わりに主人公は死の本質を言い当てる。
人の姿を借りてやってきたタナトスはこうして不意に、まさに正しい「死に様」を主人公に見せつけて動かなくなった。死体を目の当たりにしても主人公が未だ恐怖や嫌悪感をあまり感じていないように見えるが、先に書いた仮説を持ち出せばここにも説明がつく、眼鏡の死は彼にとっては、自分の心に湧いた自殺願望が霧散しただけに過ぎないのだ。幼い頭を巡らせて眼鏡のタナトスと言葉を重ねて白熱した「死の思考演習」は、ひとまずの終幕を見せる。

ラストの1ページ。抜け殻になった眼鏡を壁に寄り掛からせ、自分も隣に座った主人公はこう呼び掛ける。
「あしたの朝にはおきろよね」
彼は、今夜ひとまず「死の思考演習」について考えるのは飽きただけなのだという事がこの台詞で分かる。何か希望を持って、生きようと考え直しても、日常を過ごしていればいずれまた「死んじまおうかなー」と思うような事に出くわす。その時に眼鏡は蘇り、また彼に死を囁くのだ。生ある限り死の確率は常に付き纏い、生なくては死への想像が出来ない。絶対安全剃刀の演算結果を以って、とりあえず彼は日常の生活へ戻る。

ここまで書いて、軽く読み返して、自分で「なんじゃこりゃ」と言ってしまった。この文章で伝わるんだろうか、小論でも何でも、自分の思考に深く分け入って言葉を探していると必ず迷子になる。でもまぁいいか、何の課題と言うわけでもないし、趣味で書いた駄文エッセイだ。
高野文子先生の漫画は素晴らしい。きっと一生手元に置いておく本だろうと確信している。この随筆を機に、どこかで先生の著作を買ってくださる人が増えることを願ってやまない。


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