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殺されないように、殺さないように。

※本記事には暴力的な内容・表現があります。




小学校の頃までは、よく殺されかけた。
家族も友達も、その他の偶発的な環境や事故も、面白いくらい僕を殺しかけた。
化石のように白く変質したタンパク質の塊、膜を張ったケロイドの数々。傷跡は体の大きさに合わせて大きくなったりしないのだなと、不思議に思いながら、歩いたり座ったり寝たり、笑ったり泣いたりしているうちに、生まれてから24年経った。
僕は、俺になった。

うちには「あの人」がいる。
「あの人」は、兄からは透明人間として扱われ、父には罵倒されたりされなかったり、母には優しさに見せかけた最悪な毒をぶっかけられながら、俺の部屋のすぐ下の部屋に引き篭もり続けている。
俺は、もうすぐ自分が「あの人」を殺すのではないかと思っている。

最後に話したのは(声を投げつけられ、投げつけ返したのは)もう9ヶ月ほども前になる。
基本的に俺との交信は無い、だからお互いにお互いを妄想する。さまざまな感情が確証なしに勝手に膨らみ続ける。
理解、というか。近づこうとはした。しかし近づけなければならないというのは、元は砂漠と海とのように、遠く離れた存在であったということを証明してしまう気がして、今ではもう何もしていない。自分の表現を通して「あの人」の幸せを模索したりもしたが、全てが徒労に終わり、結局俺は、古い魚の目の瘡蓋にいたずらに爪楊枝を突っ込んで掻き回した時のような、後悔を水飴みたいにまとわりつかせた痛みに取り憑かれ、「あの人」を鮮烈に憎むようになっただけだった。
「あの人」は俺の過去であり、現在であり、未来だった。
それがたまらなく嫌だった。

台所で料理をしている時、背の高いカウンターのような段差を隔てて、「あの人」がこちらに背をむけ自分の席についた。
俺の母が作った料理を、当たり前のように咀嚼音を撒き散らしながら、美味くもなさそうに廃棄処分している。俺はふと包丁を持つ手を止めて、その後頭部をじっと見つめた。
切れ味のいい三徳包丁の柄を力一杯握りしめた。木目の隙間に手のひらの肉が食い込んでいく感触がする。
このくらいしっかり握って、全身の力で真っ直ぐに振り下ろせば、上手に頭蓋骨の縫合線に当たってくれれば。しかし確証がなく、横一線に頸動脈を切断する案に切り替えようとしたが、カウンターのような段差の高さが邪魔で、それもうまくいきそうになかった。

「あの人」の生活リズムは意外にも規則正しかった。ちゃんと朝起きて夜眠る。俺が深夜まで自室で仕事をしていると、直下の下から廊下と壁越しに「うるせえ!!!」と怒鳴られた。

どっちがうるせえんだよ。

俺の家の階段は吹き抜けで、2階の洗面所のあるあたりから、壁を切り通したような手すりに乗り、「あの人」が部屋に入る・または出るタイミングを見計らって、ナイフでも持って狙って飛び降りれば。いや何も持たずとも、24歳になった俺の物理的な質量を持ってすれば。

ナイフ。
いつぞやか、酔った拍子に、自室の壁に持っていたナイフを突き立てた。
立った姿勢でちょうど自分の臍のあたりの高さに、右手で握った持ち手を一気にぶつけた。
遠くの山に小さな隕石が落ちたような音を立てて、切っ先がほんの少し壁にめり込んだ。それだけでも、手を離すとナイフは壁から生えたかのように固定された。
背骨の硬さはどれくらいだろう。
皮膚、腹筋、腹膜、内臓は容易いだろうが、そのもっと奥へと腕を突っ込み、腰椎の継ぎ目に刃面を当てて、神経系をブチ切るには、こんなくらいの力ではダメだろうなと、残っていた日本酒を一気に飲み干した。

血の匂いがする。
この家には、この家の人間の、家系の、どうにもならない血の匂いが充満している。
人として生まれてくるべきではなかった命の、暴力でしか他者と交信できない。諦めきった、全く腹立たしい身なりの、そんな命が巡らせる血の匂いが、屋根瓦から土に埋まった柱の底に至るまで、べっとりこびりついている。
俺はその血の末裔だ。

逃げなければならない。
殺される僕は、殺してしまう俺へと成長した。
あらゆる手立てを使って「あの人」の息の根を止める方法を、たまに夜中、寝に落ちる間際、湖の底から湧く泡のように次から次へと夢想する。
俺は逃げなければならない、どこか遠くへ。あの人を殺すと思い立っても、着く頃には恐ろしさと後悔で萎縮していられるくらいの距離までは、最低でも逃げ延びなければならない。
たまに早起きして、薄い藍色に染まった廊下へ出る時。洗面所から2歩、廊下の手すりから身を乗り出して、音ひとつ立たない「あの人」の部屋の襖をじっと、じっと、じっと

じっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっと

見つめる時がある。





僕は俺になった。

俺は俺以外にならなきゃ。



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