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アンドレ・ジッド 『地の糧』

献辞(p4~6)

ヨルシカコラボカバーにつられて買う

最初に「わが友へ」として名前が出されているが、一体この「モオリス・キロ」とは誰なのか、誰か知っている人がいれば教えてほしい。私はジッドの作品は初めて読んだし、作家自身についてもよくわからない。正直に言えば『地の糧』を読んだのはヨルシカが新潮文庫とコラボレーションしていたからに他ならない。
このコラボカバーの加藤隆氏の絵、味わいがあってとても良い。オリジナルのカバーよりもコラボカバーで読んでいると、ただそれだけで気分が上がる。材質も少しざらざらした感じがして触り心地にフィット感がある。ぜひ他の文庫もこのコラボカバーのようなクオリティにして欲しいとか思ってしまう。あるいは今までの古典文学の文庫の表紙カバーをモダンなデザインに刷新してほしいとか思ってしまった。そうすれば、自分のような俄か文学ファンがジャケ買いする動機になるかもしれないと。
この書は1897年に出版されたものが、今日出海の翻訳によって1936年に日本で出版されたものだけれども、長らく絶版状態になっていた。それが、ヨルシカが楽曲のモチーフとして取り上げたことで、重版になったのだ。その意味で、この作品を読めることができたのはヨルシカのn-bunaさんのおかげだけど、欲を言えば、新訳で読みたかったというのが本音だ。一通り読んだけれど、僕のような俄か文学ファンには文章が硬くて親しみにくい印象があった。正直に言って、ほとんど理解できなかったし、楽しめなかった。それだから、もう一度読もうとこのnoteを活用してみようと考えたのだ。『地の糧』の理解を深めるために。

「糧とせる果実」(クルアーン)


この献辞には「この地上にて吾らが糧とせる果実なり。コオラン2巻23章」とあるが、おそらく2巻22章の間違いだろう。最初ネットで調べても、2巻など出てこないので混乱したが、どうやらコーラン(クルアーン)の構成は114章(スーラ)からなりこの章(スーラ)は節(アーヤ)に分かれているらしい。それでようやくここでの「2巻22章」は「2章22節」なのだと理解した。
スーラという言葉を見て、サンスクリット語のスートラ(経典:語源は「糸」)を思い出したが、スーラとはアラビア語で「柵、あるいは壁に囲まれたもの」という意味があるらしい。なるほど、スーラは物事を区別する意味があり、西洋的なロゴス原理が神の支配原理なのに対して、スートラは「糸」、つまり繋ぎ合わせていくエロス原理(因縁)が東洋的な宗教的世界観なのだという、東西の宗教的世界観の違いを認識した。
じゃあ、アーヤ(節)は何なのかと調べてみれば、アーヤはクルアーンの「詩」であり、意味は「証拠、しるし、奇跡」を意味するらしい。
この献辞に書かれたクルアーンの「糧とせる果実」とはおそらく「神の恩恵」という意味だろう。このフレーズは献辞に書かれているくらいだから重要なものなのだろう。本文である第1書(この書は第8書まであり、そのあとに「結論風の賛歌」という短い章がある)に書かれてある「どこに行こうと、君は神にしか出会わない。神とは我々の目の前にあるものだ」(p10)という文章がこの「糧とせる果実」を詳しく簡潔に説明している一文だと思う。訳者による「あとがき」によれば『地の糧』とは「欲望解放の書」とあることを踏まえれば、「目前にある全てが神」であるというニュアンスのこの表現は、「善も悪も神の思し召し」であるということを表現したかったのだろうと思われる。

厳格なプロテスタントの家に生まれた


アンドレ・ジッドは厳格なプロテスタントの家系に生まれた。彼は幼少時代病弱(頭痛や風邪など)で学校を休学したりしている。その病の中には自慰行為も含まれてあったらしいから、病弱の理由はその自慰行為に対する罪悪感から発生したものではないのかと思われる。つまり彼は宗教的に己の欲求に対する抑圧的な感情を強く持っており、それと同時に欲望解放を強く望んでいたのだろう。彼は1893年(23歳)に北アフリカへ度々旅をした。なぜ北アフリカなのかといえば、おそらく北アフリカが当時フランス領だったからだろう。その旅行で娼婦たちと交流を持ったりアラブ少年たちと同性愛的な経験をし、性への解放ならびにプロテスタント的束縛からの解放感を得たらしい。このころオスカー・ワイルドと出会い、ワイルドの影響を受けたともいわれている。
プロテスタントだった彼がクルアーンの「糧とせる果実」に惹かれたのは「善悪が神の思し召し」であることを直感したからではなかろうか。イスラーム教が善悪に対してどのような価値観を持っているのかわからないが、「善悪」とは人間が集団として生きていくときに必要なものであって、私たちがより動物に近い段階で生きようとするのなら不必要のものだったはずだ。なぜなら「悪」は生命を維持するときの「本能」機能として働いているものが、人間組織の中にあって秩序を保つためにそう呼ばれたものだからである。おそらくジッドもイスラーム教そのものに惹かれたのではなく、クルアーンの一文章を自分なりに解釈してその意味に神秘的な体感を得たのだと思われる。あるいは彼の「神」に対するイメージの拡張としてクルアーンがインスピレーションを与えたのかもしれない。

詩人アンドレ・ジッド


1895年(25歳)のときジッドは結婚をし、欲望解放の書である『地の糧』を書き始めた。「書を捨て、住んでいる街から、家庭から、自分の思想から出て行け」というニュアンスのメッセージ性の強いこの書を、結婚したばかりのころに書き始めたというのは普通の人の感覚ではない。いや、既婚者がこの願望を持つのは当たり前な事なのかもしれない。誰でも本来抑圧された観念には抗おうとする観念もその人の心の中に生まれるはずである。だがそんなことは公にはできない。同性同士の集まりで冗談混ざりに嘆くことはできても、その嘆きが伴侶に伝わってしまうような媒体に載せる危険は冒すことはできない。現代なら炎上して結婚相手以外の大衆にまで魔女狩りの如く狩られることのリスクと同等であるのだから。
しかもジッドの公表は当時受け入れられていなかった同性愛などの禁欲解放も含まれていた。つまり宗教や社会への抗いもあったわけだからまさに詩人であったということができる。詩人とはその時代の鏡である。つまりその時代の息苦しさを問題提起する最初の人のことだ。ちなみにこの1895年に41歳だったオスカー・ワイルドはイギリス南部にあるレディング刑務所に2年間同性愛の罪で投獄された。

生きるということ


ところで、なぜ「全てを捨てて新しさへと向かわねばならない」のかといえば、おそらく、現状維持というものは常に衰退へと向かわせるものだからだろう。何か新しいものを取り入れなければ、現状維持すら本来難しいものではなかろうか。例えば我々がただ生きているだけでも、新しい酸素を体内に取り入れたり、飲食もしなければ生命を維持することはできない。とするならば、現状維持という言葉は少なからず、新しいものを取り入れた結果なのである。そうであるから、字義通りの現状維持をするならば、時間とともに必ず劣化していくものなのである。つまり我々の本質は「常に新しさを受け入れ、それまでの過去の自分を未来へと更新し続けなければならない」ことを前提として「生」を自身の目の前に現象させているのである。
「この本を読んだら、この本を捨ててくれ」「私を忘れてくれ」とジッドは言うわけだが、なぜ我々は本に書かれてあることを忘れなくちゃいけないのか。それは我々が食事をした後に排泄しなければいけないことと類似しているように思われる。すなわち本に書かれてある知識(栄養)は過多になれば消化不良を起こして人体に悪影響を及ぼすからだろう。p30にあるように「感覚をとおして得た知識でなければ私には知識とは無用なものなのだ」と書かれてあるように、栄養は消化して体に吸収される分だけが必要なのであって、それ以上に蓄えればあらゆる病気に繋がってしまうものと「知識」もまた同じなのである。例えば、普通の人が「心理学」を中途半端に齧れば彼は無駄に相手の心を邪推してしまって、被害妄想に囚われ神経衰弱に陥ってしまうかもしれないのだ。

ナタナエル

p5によればこの本のタイトルは『ナタナエル』というらしい。そして『メナルク』でもよかったのだと。はて、この本は『地の糧』ではないのかと思う。けれどもおそらく、この本の中の物語として、『ナタナエル』と表されたらしい。そして「ナタナエル」という人物に読んでもらうためにこの書を書いているらしいのだが、「ナタナエル」も「メナルク」も、そんな人物はこの世に存在しないという。つまりこの二人は作者の中に存在する、いや、「未だにあったこともない君(p5)」とあるので、作者の中に存在させようとする人物像なのだということが分かる。
しかし名前には意味があるはずである。何かしらの意味を籠めたいはずである。そのために既存の人物などに肖ろうとするものである。それじゃあ一体「ナタナエル」とは誰なのか。調べてみれば、新約聖書のヨハネの福音書に登場する人物らしい。彼はガリラヤ地方カナで生まれた12使徒の内の一人で、彼は同じガリラヤ地方の中のナザレからメシアなど生まれるはずがないと思っていたが(ガラリヤは当時ユダヤ人から軽んじられていた)、イエスと出会ったとき、既にイエスはナタナエルがイチジクの木の下で祈りを捧げているところを見ており、そのためにイエスはナタナエルを褒めたので、感激してナタナエルはイエスに帰依したのだった。どうやら、彼はもともと猜疑心が強い男だったが、その猜疑心を責められることなく褒められたことに感動して帰依したらしい。おそらくこの猜疑心にジッド自身の猜疑心も重ねられているのかもしれない。
またナタナエルの別名を「バル・トロマイ」という。ヨハネの福音書以外の3つの福音書ではそう呼ばれているらしいのだが、「バル・トロマイ」とは「タルマイの子」という意味で「タルマイ」とは「沢山の溝を持つ」という意味から「土地を持つ豊かな人」を指しているらしい。なるほど『地の糧』には相応しい名前である。

メナルク

じゃあメナルクとは誰なのか。調べてみれば、ウェルギリウスの『牧歌』に出てくる「メナルクス」という人物らしい。ウェルギリウスといえば、ダンテ・アリギエーリの『神曲』の地獄編に出てくる案内人として有名だが、この『牧歌』の背景には当時の歴史的事実が関係しているらしい。当時カエサルがブル―トゥスに殺害された後にカエサルの後継者であるアウグストゥスがその弔い合戦をするのだが(フィリッピの戦い)、その戦いに勝利した後、軍人たちに対して報酬を支払わなければならなかった。その報酬として、農民たちから土地を取り上げて軍人たちに配ったのだ。この土地を奪われた農民が『牧歌』では土地を奪われた羊飼いとして描かれているらしい。
この失われた土地が「アルカディア(理想郷)」らしい。メナルクスは羊飼いを歌う詩人らしい。

詩人


『牧歌』についてはもっと調べて、「メナルクス」について知識を得たいと思ったが、よくわからなかった。しかし今現在わかったことは、「ナタナエル」も「メナルク」も「土地」に関係しているということだ。「土地」こそ「糧」というインスピレーションを与えてくれるものなのだろう。やはり人間は「土地」と結びついていることで安堵も得られるわけなのだが、それでも詩人は一度定住した土地を離れなければならなくなる。もちろん「土地」とは比喩的なもので、言い換えるのならひとつの「時代」、あるいは「思想」、「世界観」というもの、これらの中で常に詩人は「新しさ」、つまり「最先端のその時代の問題」を感じ取らねばならない使命を負うているのかもしれない。とは言いつつ、何もこの共有世界において才能あるものだけが詩人なのではない。いうなれば、自分の中のこの共有世界と接する自分自身の最先端である感性が詩人なのである。

第一の書 Ⅰ p8~17

神について


ナタナエル、神を到るところに見出そうと願い給え。

あらゆる被造物は神を指示しているが、神を啓わしていない。
我々の眼差しが被造物の上に留まると、直ちにあらゆる被造物は神から我々の眼をそらしてしまう。

新潮社文庫『地の糧』p8

解りそうで解らない言葉。「あらゆる被造物は神」であるのはその見られた「瞬間」だけであって、見られた瞬間からその被造物は「過去のもの」へとなってしまうということなのだろうか。つまり、「神」とは常に「新しい」ものでなければならない。我々が「ある未知なもの」を認識した時、それは最初「神」として崇められるが、人々に知れ渡ると「当たり前のもの」として認識されてしまうように、ただただ道具のようになってしまうという意味だろうか。
だから主人公、主人公には名前がないのでジッドと言ってしまうが、ジッドは「本を捨てて街を出ていけ」といったのだろう。そして、ナタナエルに「神を到るところに見出せ」という。つまり、新しいところ、新しいところに行ったときに、そこで出会う一期一会こそ、「神」であるのだと。まさに、詩人的発想だ。
「神」とは何か。私見だが、「神」とは「人間」と「人間」の間にある「無意識」だと解している。いろんな宗教で大事にされているのは、その宗教の戒律だろう。その「戒律」とは「人間」と「人間」の間の規律のために見出された。あらゆる組織の中での「ルール」も「人間」と「人間」との間で統制が取れるように編み出されたものだし、社会の中での「ルール」も「人間」と「人間」の間で秩序ある世界になるように見出された物だろう。だから「人間」が「空気」を読んでしまうのはそこに「神」が何らかの力を持って存在しているから人は何も発せなくなってしまうのだ。

古い神を捨てる


しかし、今ここで私があげた「神」の概念はジッドに言わせれば「古い神」と言えることができるだろう。それはちょうどジッドが厳格なプロテスタントの影響を受けて、彼の精神が抑圧されていたように。しかし、彼が抑圧を受けていなければ、彼は「全てを捨てて新しい自分(神)」を探しになど行こうとはしなかったはずだ。
「見知らぬ土地」や「未知の体験」をしている時こそ、人は「自分」自身に出会うことができる。それまでの現状維持をしている「自分」とは、「過去の自分の残骸」でしかない。

「ナタナエル、大切なことは君の眼差しの中にあるので、見られたものの中にはない。

同上p11

まさに「見られたもの」は残骸なのだ。いま我々が認識している「この世界」とは我々が過去にこういうふうにできていたからこうなっているはずだという「先入観」の上に成り立っている。だとすれば、我々が見ている「この世界」とは常に「崩れようとしている世界」、「傾いている世界」なのではなかろうか。そしてこの「崩れ行く世界」を救うことができるのは、実は「欲望」なのではなかろうか。「欲望」を「この世界」に注入することで、世界は彩り始める。「欲望」は「色」であるのだから。「世界は鏡」である。見る者によって「世界」の見え方は変わるものである。「慾」しない者の見る「世界」は「モノクロの草原」だけ映しておけばよいだろう。

私は本当のことを言おう、ナタナエル、欲望の対象の常に偽りがちな所有よりも、いかなる欲望にせよ、欲望自体の方が私を豊かにしてくれた。

同上p11

差異の歯車である運命を乗り越える

他人に興味を感ずる点は、彼が他の者と異なっているところにのみ存する。

同上p12

「差異」というものにもまた「神」の宿るところである。通常「同じもの同士」にはそれを増大させる力しかないが、「違うもの同士」の化学反応は「新しいもの」を生む力がある。しかし「差異」は時に反発を生む。苦しいが、それでも「本当の自分」を生成するためには毎日、その苦しみに耐えなければならないのだ。

平和な日を送るよりは、悲痛な日を送ることだ。私は死の睡り以外の休息を願わない。(略)
私の心中で待ち望んでいたものをことごとくこの世で表現し上で、満足して―――あるいはまったく絶望しきって死にたいものだ。

同上p12

如何に「本当の自分」を生きるために毎日を波風立てて生きれるほど、我々は強くはない。だけど、困難に見舞われ窮地に立たされた時は、上に引用した言葉を思い出して、現実の困難を乗り越えようという思いはする。どうしようもない苦難な人生を乗り越えるためには、その人生を、その運命を受け入れてしまうことである。受け入れることによって、その運命の上に立つことができるのである。

メナルク ジッドの悪魔

メナルク。彼はジッドの中の悪魔的なものなのだろうか。ヘルマン・ヘッセの『デミアン』のような存在。彼はジッドを唆せていく。ジッドの中の情欲や悪徳へと向かわせる情動の人格化された観念的存在だろう。
しかし次の文が解らない。

人は自分の理解できないことしかしないということは確かだ。理解するということはなし遂げ得ると感じることだ。≪人間性の可能の極限を担当すること≫これこそ素晴らしい公式だ。

同上p16

引用を書き写していて気が付いたが、「自分の理解できないことしかしない」っていうのが解らなかったのだけれど、次の「理解するということはなし遂げうると感じることだ」という文もセットで感じなければならなかったらしい。つまり、「人は理解していなくても、なし遂げて仕舞えば、理解したと錯覚して仕舞う」ということではないだろうか。いや、「錯覚」ではなくて、それがその人にとっては「理解」になるのではなかろうか。つまりそれは「感覚をとおしての理解」と言えるのではなかろうか。それは「理性による理解を超えた理解」と言っていいものなのかもしれない。そこは「人間性の可能の極限」と言えなくもない。








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