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ためしうた

再生

退院した翌日の朝
目が覚めると腕時計が狂っていた
事故で割れた右膝の皿がジンジンと痛い
時計の針は止まりそうで止まらない
止まったかと思えばスーと2秒 秒針はスリップすることを繰り返す
嚔を催し堪えるも勢いに負けて仕舞う
左脇腹に骨の折れたような痛みを覚える
骨折した右膝と右鎖骨よりもうんと痛い
破裂して切り取られた空腸よりも痛い
入院中は腹に響くかがゆえに我慢していた嚔
脳裡に看護師の乙女が甦る
動けるということは人が孤独になる行為
点滴、尿カテ、ドレーンなどは病人の臍帯
病が治れば人は孤独の棲み処に戻される
脇腹の痛みを堪え二度寝する
再び目が覚めた時 時計の針は完全に止まっていた
左脇腹は猶も痛みが続いていく

予感

意識がありながら身動きが取れないことは
痙攣して気が狂ってしまいそうなほど 辛い
点滴、尿道カテーテル、ドレーン等々
してみれば赤ん坊が泣いている辛さは
入院中のこの辛さと同じなのかもしれない
昼間 動けないことをずっと我慢していた
真夜中になって動けなかったストレスから
こっそりとベッドから立ち上がった
その時ベッドを囲うカーテンが翻り
黒縁眼鏡の乙女と目が合った
「トイレに行きたい」 管が入っていたが落ち着かなかったのだ
「夜は看護師が少ないからダメ」
とても可愛らしい乙女だと思ったが
稍ギャルさを感じた このタイプには嫌われるパターンだと思う
私はベッドに渋々寝転び直った
ナースステーションから聞こえてくる恋バナ
甲高い乙女らの声が身体の不調さに障った

煩悩

安全運転を心がけていた積りだった
けれども全然注意力が足りなかったらしい
右折時 前の車がその陰に死界を作った
私は対向車は全く来ていないと思い込んだ
それで前車に釣られ早回り右折して仕舞った
丸で吸い込まれたかのような出来事だった
そこへ速度超過した車と出くわして仕舞った
私は四十を手前にして漸う正社員になった
詩的生活を諦めて転職したばかりだった
そのために中古車を買ったばかりだった
全く他人の詩など読むに堪えなかったが
言葉を翫ぶ詩作は生きるための慰めだった
詩とは心に浮かび来る刹那さを
言葉という小舟に乗せて
涅槃へと送り届ける比喩的遊戯である
この世界の無常さを乗り越えるための祈りだ
私は自分の心から目を背けて転職した
心を救済するための詩作を断念したのだ
私は病室の静けさの中で言葉を慾し始めた

根蔕

言葉の力を信じられなくなって久しい
たれにも届かなかった
恋文でさえ書けば書くほど理解されなかった
いったい人間のできの違いって何だろう
持つ者と持たざる者 マタイの法則
持つ者はますます与えられ
持たないものは持っている物まで奪われ
ますます貧しくなっていくように
劣等感や妬みを抱けば抱くほど
本来持っている才能を忘れて
あるいは才能ある人に自分の才能を与えて
ますます劣等感に苛まれていく
そして苛まれることに疲れて
無気力になっていく 鬱になっていく
言葉の力を信じられないということは
自分自身を信じられないということ
比較の海から抜け出したい
根拠のない自信が慾しい
言葉は他者へではなく
自身への暗示のためにある

祈望

僕の言葉など たれにも届かないけれど
自分の心は暖かく照らすことはできる
好意を示しても 一度も見返りを貰えることはなかったね
四十を過ぎても惑いの中を歩いている
でも もういいんだよ
カッコ悪くても 何も得られなくても
ただ君の仕合せを祈ろう
君の仕合せを祈れること
ただそれだけで安らぎが得られるから
孤独感に 一時間ごとに目が覚めるけど
その度に孤独感を祈りに変え続けているよ
僕が感じる孤独感は もともと君の中にあったもの
夢の中から手繰り寄せたんだ 
使命だから
陰鬱さの中心に小さな光が輝いていることを
たれか知っている人がいるだろうか
陽気さの中心は真っ黒に焦げていることを
たれか知っている人がいるだろうか

反転

「死にたい」 君はいつも呟いている
「大丈夫だよ」って何度も言い聞かせるけど
「お腹が空いた」って呟くみたいに
自然とお腹が鳴ってしまうように
君はいつも「死にたい」って呟いている
「ごめんね、何もしてあげられなくて」
いつか君が楽しそうな笑顔を 見せてくれる日は来るんだろうか
暗い部屋から連れ出したい
初夏の陽が鮮やかに木々を照らしている
葉桜と青い空 花海棠の散り行く花瓣
池のある公園を散歩しよう
それが嫌なら内なる外へ歩いて行こう

四月二十九日

発熱性のある下着を着て寝ていた
昭和の日の朝の目覚め 初めて暑いと思った
のどが痛い 不調さに何度寝したことか
漸うベッドから起きて
スマホのLEDライトの点滅に気づき
母の忘れ物を届けに行くことになる
天気が良くてドライブ日和だったが
代車にはラジオもCDもついていなくて
サブスクで音楽が聴けなくて憂鬱だった
山際に棚引く藤の花の淡い紫色
木々の間に広がる青空 
曲がりくねった道
帰りにトローチと柑橘系のジュースを買う
風邪薬は確か家にあったと記憶する
飯を食らうて薬を飲む
ベッドの位置を変えると
酷く埃っぽくて矢鱈と嚔が出た
動画ばかり見て日が暮れていく毎日
日が沈んだ頃 のどの痛みが引いていた
しかし洟水が止まらない


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