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怒った自分を観察する

他人に威圧感を与えてしまう。私はそんな人間だ。この文章を有難い事に読んで頂いている皆さんには想像つかないかもしれないけど、悩んでいる。威圧感なんて出してない。でも怖いと避けられる。致し方ないかなと思うし、周りが弱すぎるのでは?とも思う。だからこそだけど、人と暖かい関係を構築したいという想いは心の何処かで燻っている。

そんな私が今日学んだ「怒った自分を観察する」という方法を忘れない様にnoteする。私の為のnoteだ。ひょっとしたら読んで頂けた皆様にも役立つかもしれませんし、それはとても嬉しい事です。私の備忘メモが誰かのお役に立てたならそんなにうれしい事はありません。では怒りと威圧感の話に。

威圧感は怖い顔をした時に発生する。例えば、友達と出かける時に運転手をしている時だ。歩行者や他の車に気を使いながら、友達が快適であるように、今日というお出かけが上手く行くように神経をすり減らす。だが、友達はそんな気持ちを推測できない。免許を持っていないからだ。だから、時に無神経な声を出す。アッ、あれを忘れた。こっちの方が楽しいかも。私はその無神経な声の度に、周囲に何か危険があるのではと神経をすり減らす。

必然的に顔はこわばる。危ないからだ。友達も危険に晒すかも知れない。そして、こわばった顔を友達は私の顔を見て、更にあれこれと気を遣うつもりで言葉を述べるのだ。友達と食事場所に入る。気を使って注文をしてくれる。食事の中で友達は言う「なんか機嫌悪いよね?」と。神経はすり減らしているが、別に友達に怒りを感じるわけじゃない。「別に悪くないよ」と答える。事実、こちらは怒っているとは思わない。

一事が万事なのだろう。振り返れば、人生その繰り返しな気もする。怒ってないのに怒っていると勘違いされる。ただ、いい結果に向かって頑張っているだけだ。顔の事は親に文句を言って欲しい。しかし、今日気付いたのは、自分が怒っていると認めてしまうと楽になるという点だ。友人に悪気が無いからと言って、イラっとしないほど、自分は聖人君子じゃない。自分は怒っているんだと。

怒っていると認めてしまえば、その理由を考える余裕も出来る。同乗者の友達も、自分も、周囲の人も、危険な目に合わせたくないのだ。友達の声にに注意を向けてる間に、通行人や車に接触してしまうかもしれない。だから、運転中に気を散らすような事を言って欲しく無かったんだと分かった。たとえ、友達に悪気が無かったとしてもだ。

分かれば素直に「運転中は気を散らさないで欲しい。何故ならば運転中はめちゃめちゃ神経を使っているから」とお願いできるようになる。気配りが足りないと友達にいうわけじゃない。ただ、あなたの持っている「良かれと思って」という前提は違うんです、と伝えればいいんだと。

今日は友達にも意図が伝わったみたい。顔がこわばる理由も合点がいったみたい。怒った自分を観察する。この1アクションで、ひょっとしたら暖かい関係を私も、他者と築けるかも知れない。

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