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世界の相対性理論

綱渡りと引き換えに


ちょっとショッキングなニュースを見かけた。
忘れないうちに、とここに残そうと筆を走らせる。

だいぶ前に発達障害と診断された方が日本一周をした後、亡くなられたツイートを見掛けた。

この事実だけでも胸が痛くなる。

「お疲れ様でした。」
「よく頑張ったね。」
はっきり言って部外者の私はこれぐらいのことしか言えない、できない。
この世が地獄と決まった訳ではないけど、
綺麗事や潔白性のあるものばかりではないことは確かで、
皆澱んだ空気を身に纏いながら息をしているのだ。

自らの灯火の長さを決めて旅立っていった彼らは、最後にどんなことを考えていたんだろうか。


たまにうなされるとき、
自分の首に手をかけ、月光を反射し怪しく光っていた刃先をありありと思い出す。
あの時の感情はもうぼんやりとしか覚えていない。
私が日々未遂のネタをコンテンツとして消費し続けても尚、あの時私が何を考えながら死のうと思ったのかなんて分からないのだ。
ただ唯一感覚的に思い出すのは、妙に冴えた頭の爽快感と、あの何とも言えぬ身体の解放感だけである。

でもあの快感に近い感情は後にも先にもあの時だけだと思うので、「死」はある意味で「快楽」に相当するのかもしれない。

そういう危うさが「生きる」という綱渡りで、一種のエンタメなのかもしれない。


死に場所を探して


死に場所を探すって案外私にとっては難しくて、
安心できなかった実家で一生を終えるのはなんとなく嫌で、大好きな海にしようと思っても、人目につかないように夜に行くことになるし…
とかどうでもいい強いこだわりがあったので、どうしても納得のいくベストな場所は最後まで見つからなかった。

でも最後にはそういうのがどうでも良くなるのは知っている。
もうそういうのが考えられているだけでもまだマシなんだ。

「ここ」というよりも「今」の方がしっくりくる。
場所よりもその瞬間なんだよな。
だから「そのとき」のための最高のロケーションを考える、そんな感じなんだろう。


相対的にグレー


一見グレーと聞くと、なにがこの話に関係あるのかとおもうのだけど全然そんなことない。
例えば純白しか周りにいないとして、ただ相対的にグレーという判定が出ただけで、色付きなことに変わりはない。
そんな感じ。


大人になってから、自分のグレーすぎる行動がトラブルを招いていることに気付き始めた。

私は注意欠陥が幼い頃からあったが、より顕著に出始めたのは成人後だった。
特に仕事がダメで、注意していても何度もミスを繰り返してしまう。
そうすると、周りの人がだんだんイライラして当たりが強くなっていき、しばらくして辞める。それの繰り返しだった。

もちろん私の出来の悪さと被害妄想の激しさも原因なんだけど、なんとなく私への当たりの強さを感じる時がある。
そういう時、真っ先に自分を責めてしまう。
「できない自分が悪い」
「怒られているって錯覚してる」
そういう言葉が頭をよぎる。

今自分が感じている心の痛みが、正しいのかそうじゃないのかわからない。

そのもやもやを共有するのも気が引ける。

そうやってぐるぐるしながら眠りにつく。
眠れないから寝たフリをして、疲れて寝る。
相対的にグレーは思っていた以上にしんどい。

そうやって藍色の夜空を遠目に、肩を落とす。


誰がこの障害をギフテッドなんて言ったんだろう。

もらって嬉しい才能(もの)なんてなんにもなくて、
ただ神様が遺したガラクタばかりじゃないか。

「役に立ちなさい」とあらゆる場面で言われ、
出来上がったわたしという作品は
ただ感受性がやたら強くて些細なことで落ち込む「生きづらさ」を拗らせた頼りベタの人間だった。

彼の気持ちは私は分からない。
なにも、1ミリも。

けれども当たり前ができない苦痛。
どうしたらいいのか分からないしんどさ。
解決策が見つからない絶望感。
それでも生活をしなければならない現実。

全部が全部負担に思える。
ただそんな特徴なんて誰でもあると私も何度も言われた。

そんなことは分かってる、分かっているんだ。
でもそれが生活に大いに支障をきたすのであれば、それは「障害」と言えるのだ。
だけどそれが伝わらない。どう伝えたら良いのかも分からない。
いっその事私の脳みそをドロドロに溶かしたい。
もう使えないようにしたら分かってくれるだろうか。



目に見えるもの


難病指定の病気も死に至る病もそれは本人も周りの人もとても辛いことだろう。

けれども心の病みもそれと同じだと思うこともある。
本人にもどうしようもないのだから。

人は目に見えるものしか見えていないようだ。
いや、目に見えていると「信じている」ものを見ているのだ。

そう思うとなにが普通で何が異常かなんて全部相対的な判断しかできない。
そのコミュニティ内での限定的な差異に過ぎない。

自分が普通じゃないっていう悩みなんて大きな目線で見たら大したことないんだろう。

けれども、我々は孤独に耐えられない。
どんな痛みを耐え忍ぶことができても、世界にたった一人取り残されたような孤独には誰も耐えられないのだ。

孤独は病だ。
孤独は心を蝕み、歪ませ、破滅させる。

みんなひとりになりたくなくて必死に生きているのかもしれない。

全ての行動原理が「孤独」からの回避だとしたら、わたしは多少は孤独に慣れてしまったのかもしれない。


今はその危うさに足元を救われている。


「普通」の概念の相対性に気付いたところで
心の痛みが消え去るわけじゃないけど、
私が相対的にみてグレーなら
私の思う「異常性」を嘆き続ける必要もない気がした。

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