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DNAに書き込まれた私の寿命

身体によくない食べものが、わりと好きだ。
学生の頃には、マクドナルドのテリヤキバーガーがこの世で一番美味しいと思っていた。
ピザハットのピザやすき家の高菜明太マヨ牛丼も好きだ。

今まで生きてきた中で一番好きな食べものは?と聞かれたら、真っ先に生牡蠣が好きだと言う。
ノロに当たるかどうか一か八かで食べるというリスクを背負ってでも、ポン酢をつけて食べる生牡蠣が一番好き。

最近気がついたんだけれども、生活する中で、「食べる」ということの優先順位がわりと低い人間な気がしてきた。
「食べる」行為はするけれども、「食べる」内容の方。

仕事で疲れた日には、食欲がガッツリと削られる。
大きな病院に勤めていた時、お昼休みが30分も無かった日は、コンビニの手巻き寿司1本をオロナミンCで流し込んで午後から仕事をした。
夜勤明けも、帰り道に買ったオロナミンC1本を飲んで寝て(倒れて)、起きたら晩御飯の時間だったなんてこともあった。
10〜20代のほとんどの朝は、コップ一杯の牛乳とトースト一枚だった。

そういえば看護学生時代。実習中も食事を疎かにしていたな…。
夕方に病院実習から帰ってきたら、すぐにシャワーを浴びて、集中力が切れないうちに記録を書いたり勉強をしていたら、晩御飯を食べ損なっていた。
というか、実習記録が莫大で、全て手書きだったからっていうのもある。
空腹の時は、感覚が研ぎ澄まされてるし、お腹がいっぱいになると眠たくなる。実習期間中は、ほとんど全ての学生が睡魔との戦いだったと思う。

そう考えると、今も昔もほとんど同じだ。時間がない時や、娘ととる食事は基本的にお腹に入れば何でも良い。


食べることに「幸せ」を感じるのは、特別な時間を過ごせたときだ。
なかなか会えない友だちとご飯を食べたとき。
育児と家事で毎日クタクタなママ友と子ども抜きでご飯を食べに行ったとき。
クリスマスやお誕生日といった、年に数回しかない記念日の食事。

最近の特別は、娘が早く寝た日に夫婦2人だけでゆっくり食べる遅めの晩ごはん。

明太クリームパスタ


私は、料理は得意な方では無いんだけれども、旦那が好きそうなごはんを作るのは、わりと得意な方だ。
時間がある時は、美味しいと言ってくれるものを作ってのんびりと一緒に食べる。

生クリームと明太子、少し和風だしを入れて作る明太クリームパスタ。

茄子に片栗粉をまぶしたものを焼いて、甘辛いタレを染み込ませた照りとろ茄子。

餅にチーズと大葉、豚バラを巻きつけて焼き、タレを絡めた餅チーズ豚巻き。

人参大根鶏肉ごぼう、椎茸とあごだし・1時間くらいゆっくりかけてとる昆布だしで作る、母に教わった少し甘めのお正月のお雑煮。

ごはんに合うものでカロリーも多めだし、栄養バランスも考えたことがない。不健康晩ごはんがほとんど。


ほとんどの日は、健康的では無い食事で出来ているんだけれど、幸せはたまにあるから幸せなんだなって感じるから、このままでもいいかなって思ってる。


ついこの間見た、Newsweekの記事によると、この世の生命体の寿命は、DNAにもともと書き込まれているらしい。
それによると人間の寿命は38年。
ということは、私はあと5年以内には寿命を迎えることになる。
寧ろ、ここまで生きて来れたのは、奇跡に近いのかもしれない。


いくら不摂生をしていても、健康に気をつけた生活を送っていても、個人の寿命は産まれた瞬間、もしくは細胞分裂が始まった時点で決まっていて、今日70とか80歳まで長生きできているのは、医学の進歩や奇跡的に避けることのできた事故によってほんの少し長く生かされているだけなのかもしれない。

いつ、どのような形で死ぬかなんて、誰にも予測できない。


どう足掻いたって、動かすことのできない事象の下で生きるしかない。
身体に良いと言われている苦いものを何年も口にしていたって、その分伸びる寿命というものは、たったの2〜3年かもしれない。そう考えたら、無理に継続する必要ってあるのだろうか…って思ってしまった。その日やその次の日の痛みをとるための行動はしていても、長生きするためにしていることは、ほとんどない。

今、生かされているうちにやれることをやってしまおうと思う。
好きなものを食べて、好きなことをする。
好きな場所に行き、好きな人と過ごす。

最後は個となって、朽ちていくだけなのだから、自分勝手に生きようじゃないかって。
ちなみに家族には、死んだら海に撒いてと言っている。窮屈なお墓に入るなんてまっぴらごめんだし、血の繋がらない義理の父母と同じお墓には入りたく無い…。後は、お墓の管理は大変なので次の世代にまで「私」を背負わせたくない。



ある日突然死んでも、病に倒れて病院や施設で苦しみながら死んでも、どちらにしても「しょうがないな」って思う。
きっと、死んだ瞬間には、「あ〜死んじゃったなぁ」とつぶやいている気がする。

知性があるから「死」が怖いものに思えるんだろうか…いや、「死」は怖くは無いよね、怖いのは死にたどり着くまでの「苦痛」が共感し得ないものだから。
死んでしまえば、その先のことは誰も知らないことを「共感」することができる。だから、恐るというモノではないのだ。

身体や心の痛みだったり、「これからどうなるのだろう」という不安だったり、残していく家族への心配といったものが恐怖を呼ぶ。だってこれは、人それぞれ大きさや重さが違うし、全てを理解してもらうのは到底無理だから。

自分だけの責任を負うのであれば、消えてしまうことは、なんてことない事柄なのかも。


後悔するかどうかは、その時の状況でも変わるのかもしれない。
私は大きな地震があって死んでも、北の方の国からミサイルが飛んできて死んでも、まぁしかたないかなと思う。今のところは。
生きるのって疲れるし。
ほんの少し痛いとか、一瞬で消してくれるなら、それはそれでいいかなって思う。

以前、北海道で大きな地震があった時、夜だったんだけれど、バチっと目が覚めて、「すごい、これはヤバい揺れだな…」って、ベッドの上でぼんやりしていた私に対して、揺れる中「大丈夫かー?!」って旦那は安否確認しに来てくれた。(旦那は居間のソファにいた)
何故ベッドの下に入らなかったのか、とか頭を守るって教わらなかった?とか…地震が起きた時のノウハウ(?)をある程度言われたけれども、あんなに大きな地震なら、もう死んでも仕方ないかなって一瞬で生きることを諦めた自分とは、性質が違うんだろうなーと、少し尊敬した。

ミサイルが〜って時も、それは一瞬で灰になるくらいのやつなんだろうなって思うから、怖いとか痛いという感覚に着く前に消えてしまうんだろうと思う。


例えば、残された旦那や子どもは〜とか言うけれども、その人の人生はその人だけのものなので、その後の人生は自分でなんとかしてもらうしかないとも言える。
みんな、自分以外に優しすぎるのだと思う。

きっと私は、周りが思っている以上に冷たいし、何処かで諦めている部分もあるので、これ以上強く望むってことはもうしないと決めた。
目の前のこと、今繋がれている近しい人しか大事にできない。


自分にも、他人にも、期待しないのが一番楽で生きやすいし、死にやすい。


生きるとか死ぬとか、こんな話をしていて言う話でもないんだけれども。

2月の終わり頃、またひとつ歳をとった。
いつも一番乗りに誕生日プレゼントを贈ってくれる10年来の友だちから、今回もいつも通りにプレゼントが届いた。

パッケージの手書きラベルもなんだか嬉しい


今回は、この間のパリ旅行で買ってきたボディークリームにしてみました。というお手紙とともに、「3月付けで、四国に引っ越すことになりました」という言葉も書かれていた。


プレゼントを抱えたまま、しばらく泣いた。

あんな文章を書いていてなんなんだけど…
死ぬことは怖くないのかもしれないけれど、大切な人と別れることは悲しくて淋しい。

いつもそばにいた存在が、いつでも会えると思っていた友人が、そうではなくなる。
身体の痛みよりも心の痛みのほうが大きくてしんどくて恐怖が強い。

一般的に、死を受け入れるには5段階のプロセスを踏んでいくけれども…。
そっか、感情が振り回されるから怖いのか、って。そう考えると、怖いのはコロコロ変わる人間の心だな〜なんて思った。

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